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原爆の絵

識別コード WH14-155
絵の内容 さくら隊の演劇活動
作者名(カナ) 下村 儀三(シモムラ ギソウ)
作者名(英語) Giso Shimomura
当時の年齢
寄贈者名
種別 わがなつかしの広島
情景日時 1945年(昭和20年)7月末
情景場所 演舞場とJOFK
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵中
広島西検番
料亭古家
わがなつかしの広島 
演舞場
下足あずかり所 
防火用水 
西地方町 
産業戦士慰問の夕べ 
丸山定夫さん江演舞場より
移動演劇さくら隊さん江演舞場より
農夫(丸山定夫)が(満蒙開拓義勇軍で行く青年の後を追って、家出する娘が乗った列車を、畑から見送る)ラストシーン。
いつまでも元気でなー
移動演劇さくら隊丸山定夫一行は広島に永く滞在して演劇活動を行っていた。昭和二十年七月末
私の職場 東洋製罐広島兵器製作所 産業戦士全員広島市西地方町に有る
広島演舞場に丸山定夫一行の演劇を見に行った。八月六日やがて原爆丸山定夫外さくら隊員殉難す。
わがなつかしの広島 私とJOFK
昭和 年 1978.6. 下村儀三 60才 画
JOFK 広島放送局はのど自慢応募者の募集をラジオで放送した。マイクロホンの前で歌うチャンスを狙っていた私は早速「民謡」『瀬戸の舟歌』を作詞作曲して応募の申込書を郵送しておいた。
審査員は別室だった。もーけっこう次!! 
蝶ネクタイのアナウンサー
1978.6. 下村儀三 
60才 画
やがて受験日の通知が来た。放送局表二階ベランダの次の部屋が応募者の控室で、その隣が受験室だった。受験室にはハンサムなアナウンサー一人居て、私が『民謡・瀬戸の舟唄・ハアー』と一声出すと、アナウンサーは『もー結構ーいずれ又』と言った。…が昭和五十三年六月現在今だお呼び出しがないので有る。其の後ラジオで合格者の「音戸の舟唄」が流れた。
1978.6. 下村儀三 60才画
サイズ(cm) 38×26.8
展示の説明文

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