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トップページ原爆の絵庚午新開

原爆の絵

識別コード WH14-022
絵の内容 庚午新開
作者名(カナ) 中津 久子(ナカツ ヒサコ)
作者名(英語) Hisako Nakatsu
当時の年齢
寄贈者名
種別 わがなつかしの広島
情景日時 昭和6年5月頃
情景場所 庚午新開
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵中
庚午新開より向う新開を見る。山手川、川口、草津の海に至る。カンゴクより■■くんだ肥料(人糞)を肥桶でアユミを渡って運び下の畑の肥つぼまで運ぶ。左手の油障子は苺畑、雨が降るとコモで■でで蔽う(■も…)そのコモは朝まくり上げ夕方障子の上に拡げる。この作業は子供の仕事であった。『向う新開』と称していた土地は、■■に三菱の工場地帯になっている筈。大土手の中側に二本の水路があった。
**裏
□□□□□□□□□□ 中津久子 59才
S6年、5月頃、麦畑が伸び、麦の端に芋苗を挿した砂留、庚午新開が(明治何年かの、庚、午の年に砂州を堤防でかこんで作ったといわれる)草津町庚午となって広島市になったばかりの頃です。砂畑にゴミを埋め、朽葉を埋め、そして肥船桶で吉島刑務所の人■を川づたい海づたいに運び、更に船からアユミを渡して、肥桶で畑の隅の肥つぼに汲みためていました。(この肥船に仰向けに落ちこみ、その後腸チフスで亡くなった人もいました。)画面右手の牛舎は木戸牧場といって、乳牛が六、七匹いましたが昭和十七年八月の高潮で堤防決壊し流されて死にました。左手の障子は油(傘に塗る油)障子で苺畑です。朝、上のコモをのけ、夕方、又コモをかぶせるのは、子供の仕事でした。土手を下りると、河口の砂州には種々な貝が採れ、中でも馬の爪といいう黒くて大きな貝は、実が赤く、節句のおすしの具には、かならず入れていました。
サイズ(cm) 37.5×53.5
展示の説明文

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