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原爆の絵

識別コード WH13-033
絵の内容 太田川舟下り
作者名(カナ) 斉藤 安子(サイトウ ヤスコ)
作者名(英語) Yasuko Saito
当時の年齢
寄贈者名
種別 わがなつかしの広島
情景日時 大正14年秋
情景場所 太田川
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
大正十四年の秋軽便鉄道で安佐郡可部町福王寺に参拝見学の帰途を太田川舟下りをしました。舟の中で船頭小唄外当時の流行歌を唄った後、職場の主事さんが壺坂霊現記のセリフをお上手に語られました。お里沢市のお面を廻し乍ら顔にかぶって…。この絵の丸まげ姿はお里のセリフを云って居られる所です。やがて何時しかたそがれて中空に満月近い月が川面に銀色のさざ波の浮ぶ頃相生橋近くの舟着場に着きました。この橋詰の袂近くの堤に段々がついていて堤の上に昇り、三々五々帰宅したのですが、生れて初めて舟に乗って岸についた時の安緒は、なつかしくも又不安も今も忘れられません。
**別紙
No1 「絵についての言葉」
私の勤めていた職場の課は当時30人近くの人で女子が十三、四人位だったと思います。四季折々に慰安旅行や催しがありました。廿日市の梅林、温品の螢狩り、がんねの海水浴、カブキ座招待、江田島海軍兵学校見学、それからこの絵の安佐郡可部町の福王寺参拝見学その帰途の太田川舟下りなどでした。私の参加したのは兵学校見学とこの絵位と後一、二位でした。その頃の太田川は水が清らかで物静かで水の量も多かった様ですし可部から相生橋の袂の舟着場まで誤来の外に荷物の積み上り下りも往来していたとか、又眞白い眞帆、片帆が南風を一ぱいにはらんで浮ぶ光景は広島を絵にしたかの様な風物詩の一つでも有ったと云う人もあります。私はとに角相生橋の袂に着いた時は生れて初めてお舟に乗った■にホット生きがえった思いがしたが今この年令になってNHKと広島太田川それに架かる相生橋と私との御縁のつながりになろうとは夢にも想わず今にして追想すればとても有意義であったし又、うれしくなつかしい限りです。実際にはこの絵の舟下りに参加者は20人余りだったと思いますが全員お元気でしょうか?殆どが広島市内この近郊の方々でしたのでこのメンバー原爆にも雨にも風にもめげず必ずやこの絵を御無事で御覧頂き昔日を偲ばれてお笑ひ草までにして下さる事を切なる思いで希い念じ祈ってやまない今の私で御座います。終り
六月五日
"わがなつかしの広島の絵" 氏名 斉藤安子
係り 御中 年令 七十一才
職業 □□追伸 絵の主事さんの楽演して居られるお里沢市のお面はボール残で両横に紐をつけて前後に廻したら一人二役を演ずる様に目をくりぬいて見える様にしてあります。前日主事さんが私に作って来てくれと依頼をうけ思案して作ったものなのです。
No2  裏に一枚追加であり
サイズ(cm) 24.2×35
展示の説明文

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