トップページ原爆の絵浅野泉邸の竹やぶの一本道にあったツヅの木
識別コード | WH11-048 |
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絵の内容 | 浅野泉邸の竹やぶの一本道にあったツヅの木 |
作者名(カナ) | 瀬島 唯男(セジマ タダオ) |
作者名(英語) | SEJIMA Tadao |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | わがなつかしの広島 |
情景日時 | 明治42年頃 |
情景場所 | 上幟町 |
情景場所旧町名 | 幟町 |
情景場所現町名 | 幟町 |
爆心地からの距離 | 1,100m |
ブロック別 | 銀山・幟地区 |
作者による説明 | **裏 (明治四十二年頃の絵) 瀬島唯男 75才 **別紙 懐かしい「つづの木」 瀬島唯男 75才 浅野藩時代の昔、広島城の外堀(今の上幟町)と縮景園(当時は浅野の泉邸と呼ぶ)の竹やぶに挟まれた一本道がありその中ほどに「つづの木」がありました。夜な夜な狐か人のいたづらか、この古い空洞の大木にヤカンをぶら下げ、異様な音をたてたり、怪異な光を出したりするので人々は恐れ、この道は夜るになると人の通りが無かったと言ふ話を幼い時大人からよく聞かされたものです。浅野の泉邸横の竹やぶを明治になって整理して浅野家が長屋を十軒と二軒に分け、その中間に由緒あるこの「つづの木」を残し大切に保存し長屋のシンボルとして、原爆の日迄親しまれる当時郵便物も「つづの木」の下と書けば届いた程です。明治四十年頃の幼少時代「つづの木」の空洞でかくれんぼをして遊び筒の様な木の内側から青い天を見上げ、四、五人の子と木を囲み手を拡げて結べる程の大きい根元でした。この絵は明治四十二年頃、堀埋立前のもの、其の後堀を埋立て、電車白島線が開通、世は大正時代に成りました。 |
サイズ(cm) | 27×37.8 |
展示の説明文 |