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原爆の絵

識別コード WH08-008
絵の内容 慈仙寺
作者名(カナ) 宇城 フユコ(ウジョウ フユコ)
作者名(英語) Fuyuko Ujo
当時の年齢
寄贈者名
種別 わがなつかしの広島
情景日時 昭和18年
情景場所 慈仙寺の理容学校
情景場所旧町名 中島本町
情景場所現町名 中島町
爆心地からの距離 270m
ブロック別 平和記念公園・周辺地区
作者による説明 **絵中
慈仙寺
理美容学校鉄道教習所
**裏
中島町
慈仙寺の中にあった鉄道教習所と理美容学校
**別紙
私が、昭和十八年十月五日から、十五日までの十日間通った慈仙寺。私は、昭和十六年四月から横川の散髪屋さんに弟子入りをして、前記の日より、理美容学校へ入学し、電車や徒歩でT字橋を渡って、中島にある慈仙寺へ通ったものです。あの当時は、鉄道教習所と理美容学校がいっしょでした。電車なら左官町で降り、歩く時は寺うらを通って、相生橋を中島の方へむかって渡って行きました。朝七時半頃にいつも通る旅館の前で、女の方が必ず打水をして居られました。「お早うございます」と云うと笑顔で「お早うございます」とさわやかな声がひびいて来ていました。
少し行くと慈仙寺の前に濱井理容院があってそこから一丁入ると慈仙寺の門です。正面が本堂で、向って左側に学校の建物がありました。板張りの床が、歩くたびにゴトゴトと音を立て、窓を明けるとすぐ下が川だったと思います。とにかく川の水がきれいでした。
私は、途中で検定試験を受け、合格したので学校をやめました。ほんの十日間の思い出ですが、橋を渡る時、いつも目の前に見えていた。「相生館」の字は今もはっきりと見えて来ます。私は、時折り慈仙寺へお詣りしています。原爆で亡くなられた多くの方々、私達が手をふれた人達、そして、無縁神なられた方々、その多くの人達お骨が慈仙寺の中に納めてあると聞きました。
もう今はあの当時を思い出すものとてもなく、一人さみしく、そぞろ歩いては帰ります。何はともあれ、静かに心から、平和を願っている一人です。
宇城 フユコ
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サイズ(cm) 27×24
展示の説明文

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