識別コード | WH03-008 |
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絵の内容 | 相生橋から見た原爆で死んだ軍馬 |
作者名(カナ) | 嘉戸 多恵子(カド タエコ) |
作者名(英語) | Taeko Kado |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | わがなつかしの広島 |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | 相生橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 300m |
ブロック別 | 平和記念公園・周辺地区 |
作者による説明 | **絵中 陸軍病院 西練兵場 相生橋 平和公園慰霊碑 ①我なつかしの広島の絵 ① 妹 照美 妹帰らないまま戦争は終った ② 原爆死した妹と陸軍病院で盲腸に手をあて診断中原爆を受けた主人 雅人 も帰らぬ人となった。(昭和三十八年七月二十三日夜十一時骨も身も血も失せて) (昭和二十年八月六日広島陸軍病院外科病棟で軍医として診療中、夫は原爆直射を受けた右顔に窓硝子破片が混入16,7個、左大腿乃左下肢内側に硝子破片混入の跡多くありき。出血もあまり無いのに貧血が次第にありて、白赤球減少が後になり判明した。 ③ 軍馬の死せる水ぶくれした橋より見た姿を想い出す。 ④ 昭和二十年(八月六日、八月七日)相生橋より先の広島市内にもう行くことは出来なかった。 ⑤ 八月六日 廿日市国民学校国道に広島市内の多数の原爆に被った患者が多数、何度も運搬されて来たのを救護する為、連日、私は持っていた医療材料、全部はたいて救護に当った。 ⑥ 「先生助けて」「水!水!」と呼びさけぶ原爆患者。ガーゼも消毒することも出来ないまま薄いリゾール液に浸してしぼった「うじのわいたのをふきとって患部に当ててその処置は材料不足で大変苦労したことを想い出す。 水ぶくれして死んだ軍馬を遠い昔、相生橋より見た ⑦ 夜は夜で「先生!先生助けて下さい、おれは何ぼでもします」但し、二、三日すると一人死に、二人死んだ。葬儀はしないまま焼場は一杯で大変。大葬場は忙しかったと後で聞く。 ⑧ (カルシューム静液 葡萄糖+BⅠ静液)一円二十銭(廿日市自宅で個人救護した事を遥か昔の想い出とした。) リンゲル注射等多く使用した様に思う ⑨「戦争が終った!」陛下のお言葉を涙してラジオで聞いた」 ⑩兄も戦病死した。 ⑪家々は八月六日を境として変って行き、自分はお蔭様で60才を越えるまで生きさせて戴いたことを、み仏様に感謝してこの思い出を記すことにする。 原爆の8月6日広島電鉄動かず 路面広島市内電車橋 左官町 己斐 相生橋 己斐方面に向う 己斐より歩いて妹を探したが帰らぬ人となった 合掌 □□□□ □□□□□□□□□□ 医師 嘉戸 多恵子 □□□□□□□生 嘉戸多恵子 |
サイズ(cm) | 37.8×53.8 |
展示の説明文 |