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トップページ原爆の絵広島市の庶民の家

原爆の絵

識別コード WH01-023
絵の内容 広島市の庶民の家
作者名(カナ) 上西 薫(カミニシ カオル)
作者名(英語) Kaoru Kaminishi
当時の年齢
寄贈者名
種別 わがなつかしの広島
情景日時 昭和8、9年
情景場所 広島市
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
ノーリツ
自転車
**裏
戦前の広島市の庶民の家は道路に面した又南面した道のほとりに、多く草木を植えたものだ。敗戦の後都市計画のため多くの家の前のアキ地が道路拡張のためにとられ今日のように名古屋広島といわれるような立派な道路になった。高級官吏や金持ちの多かった幟町,白島別荘通り即ち竹屋町等には皆コンクリートのヘイでこんな光景は少ない。これは余の子供の時強い印象にあるものであって今でも焼け残った段原,皆実町地区の裏通り等にはこの風景は残っている。アオイ、バラ、ヒマワリ、アサガオ、サルビヤ、サボテン、夕顔、パセリ、不断草、トーガラシ、アヤメ、カキツバタ、他にユリが多くあった。夏の夕ゆかたがけで水をやり氷水一杯飲むのが当時の子供のたのしみであった。夕方は大きな楠木の洞から出るコウモリがとびかう市の中心部の話である。古いことのくわしい人にも聞いて見て見てみ、「こんなのないしらん」と云う奴がおれば聞かれる資格はないで、誰全市己小素人花段と云うのではないこう云う光景が今の袋町、立町、国泰寺、大手町等にあったと云うのである。のきにつつてある球のようなものは当時みずくさと云った。みて涼しいもんだぞしっているか。シダの一種で毎日水をかけたうちのラジオはドイツのジメンス五球が憲兵隊の許可をえていたのでとつこんなアンテナがなく少ないものであったがラジオのある家ではこんなアンテナをつけた人があった。■OJOAK,JOBKもはいった。短波の聴取は禁じられていたので高感度のものは憲兵隊の許可がいった。雷の時は安全スイッチを切り忘れて盗んだ奴もいたよ。
サイズ(cm) 27×38
展示の説明文

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