識別コード | SG-0657 |
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絵の内容 | 慰霊碑について2 |
作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
作者名(英語) | Seigo Nishioka |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1946/2 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | 中島新町 |
情景場所現町名 | 中島町 |
爆心地からの距離 | 700 |
ブロック別 | 吉島・舟入・観音地区 |
作者による説明 | *絵中 焼け跡には、焼けたトタン板を拾い集めて作った小さく粗末なバラック小屋が点在していました。風に煽られ「カタン、カタン」と音がしていました。私たちが賑やかにお喋りをしているので、バラック小屋からおじさんが顔を出しました。おじさんは体が痩せていて大きな目で私たちを見ました。 電気科1年生55人の内、生き残った10人は建物疎開作業に行かないで助かった生徒です。それは父親の葬儀、呉市の空襲被害、病気、電車に乗り遅れなどの理由でした。担任の橋本先生は前日が防空当直のため学校内で被爆し、大怪我をされました。 現地に着くと穴を掘り、碑を建てて盛り土を作りました。 ガラス瓶に川の水を汲み、橋本先生が持参した花を挿し線香を焚きました。 先生の合図で整列して黙とうを捧げました。今まで騒いでいた私たちは神妙な顔をして、亡き友を偲んでいました。 先生は「受け持ちの生徒が被爆死してわしが生き残ったので、ご遺族に申し訳がない」と言われながら悲壮な顔をされていました。 追悼が終わると先生の指示で、周囲に飛散している級友の遺品を拾い集めてバケツに納めました。 服のボタン、弁当箱の蓋、ベルトの一部、乗車定期券等を見つける度に大声を上げていました。子供の「宝探しゲーム」のようでした。 10数年後、橋本先生からお聞きしたお話は「当時の日本はアメリカを中心とする連合国の占領下にあり、支配者であるアメリカは、自らがもたらした原爆の被害について公にすることが禁じられたため、後日この慰霊碑は撤去され学校内に設置された。遺品は慰霊式の時ご遺族にお渡しした」と言われました。 先生は遠い所を見るような表情で、思い出しながら話されました。 |
サイズ(cm) | 29.7×21 |
展示の説明文 |