識別コード | SG-0632 |
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絵の内容 | 学童疎開していた弟を引き取りに行く |
作者名(カナ) | 尾崎 稔(オザキ ミノル) |
作者名(英語) | Minoru Ozaki |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 尾崎 稔 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/9 下旬 |
情景場所 | 興聖寺 |
情景場所旧町名 | 双三郡三良坂村 |
情景場所現町名 | 三次市三良坂町 |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | *絵中 疎開児童の引きとり(昭和20年9月下旬) 疎開先 双三郡三良坂村 興聖寺(福田組30名) ”アアー 弟の布団だ”(フトンが干してあった) ここが興聖寺だと確信した。 興聖寺 翌日、帰宅することになり、下の家で朝食のご馳走になった。 大盛の「銀メシ」当時としては最高だった。 この頃になり、弟も笑顔をみせるようになった。この顔は何よりだった。忘れられない。 女の子 10才位い 弟 狷介11才 兄 稔(13才) 原子爆弾 被災 ヤケド 昭和20年春、空襲から子供達を守るため、集団疎開が行なわれた。中島国民学校では一次247名教師14名が双三郡の8軒の寺に分散疎開した。 弟達の組30名は三良坂の興聖寺だった。被爆で親族、家を失った者も多かった。 但し9月初旬には28名が広島に帰り、現状は弟と女の子2人だけになっていた。 連絡を受け兄(13才)が迎えに行った。当時枕崎台風で鉄橋等が流出し、交通も乗ったり歩いたりの不便さだった。お寺、近所の婦人会には大変お世話になった。 帰途も深川から矢口へ行く道を間違え広島へ出てしまった。 母、妹の事は云わなかったが、察しているようだった。 2021年令和3年6月 尾崎稔89才 |
サイズ(cm) | 27×38 |
展示の説明文 |