識別コード | SG-0619 |
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絵の内容 | 防空壕へ患者たちを避難させる |
作者名(カナ) | 多田 キクエ(タダ キクエ) |
作者名(英語) | TADA Kikue |
当時の年齢 | 19歳 |
寄贈者名 | 溝久 充江 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8 |
情景場所 | 広島陸軍共済病院 |
情景場所旧町名 | 宇品町 |
情景場所現町名 | 宇品神田二丁目 |
爆心地からの距離 | 3200m |
ブロック別 | 皆実・宇品地区 |
作者による説明 | *絵中 防空壕 廣島陸軍共済病院 *別紙1 御幸橋を渡り我が病院(陸軍共済病院)現在の県病院 病院に入ると、被爆者ばかりで、職員も被爆して人数が居らず、全く無傷の私はその時より不眠不休で看護にあたりました。夜は広場で野宿、毎日死体の整理で、つかれから、発熱、下痢が続き、でも国の爲に頑張ろうと思い、動き廻りました。 *別紙2 被爆体験について 当時満19歳 連日焼けつくすような炎天下にB29があきもせず飛んで来るのです。宇品港が近いため敵機は、五機、十機と編隊を組んで、毎日本土へ向かってやってきます。その都度まだ生きている患者は、防空壕に避難させるのですが、防空壕の中は暑さから逃れるため、我先にと避難した患者が、折り重なって死んでいるのです。その死体を踏み台にして、又新しい患者を運び込んでいくのです。看護婦である私達は、患者を守るため、防空壕の中に入ることが出来ず、外で待機するのです。 私達は白衣を着ているので、空からは一目で目につき、いつ爆弾が我が身の上に炸裂するかもしれず、死の恐怖と隣り合わせの苦しい日々でした。でも、私達には患者を守る使命があります。逃げる事は許されないのです。空襲のあい間には、防空壕の中で重なり合って死んでいる数え切れない患者を手かぎのついた棒で死体を引っかけて引っぱり出し、病院の横のにわか仕立ての火葬場に運ぶのです。 |
サイズ(cm) | 27×38 |
展示の説明文 | 多田キクエ さん 当時19歳 寄贈:溝久充江 広島陸軍共済病院 の看護師。 次々と運び込まれる被爆者の看護に、不眠不休であたりました。 その影響により、戦後、全ての臓器を侵されました。 また上半身にできた、「なめ茸のようなできもの」に苦しめられました。 連日、炎天下にB29が飛んでくるのです。 その都度生きている患者は防空壕へ避難させるのですが、われ先にと避難した患者が、折り重なって死んでいるのです。 その死体を踏み台にして、また新しい患者を運び込んでいくのです。 |