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トップページ原爆の絵必死に母を求めながら亡くなった女学生

原爆の絵

識別コード SG-0618
絵の内容 必死に母を求めながら亡くなった女学生
作者名(カナ) 多田 キクエ(タダ キクエ)
作者名(英語) TADA Kikue
当時の年齢 19歳
寄贈者名 溝久 充江
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/8
情景場所 広島陸軍共済病院
情景場所旧町名 宇品町
情景場所現町名 宇品神田二丁目
爆心地からの距離 3200m
ブロック別 皆実・宇品地区
作者による説明 *絵中
お姉ちゃん お母さんよんできてー

*別紙
被爆体験について 当時満19歳
御幸橋を渡り我が病院(陸軍共済病院)現在の県病院 病院に入ると、被爆者ばかりで、職員も被爆して人数が居らず、全く無傷の私はその時より不眠不休で看護にあたりました。夜は広場で野宿、毎日死体の整理で、つかれから、発熱、下痢が続き、でも国の爲に頑張ろうと思い、動き廻りました。
ある日(8/8)巡視していたら、「おねえちやん ゝ」の声に近寄ると、女子らしい。男女の区別もつかない程やけている。
その女子が「胸の名札を見て下さい。お母ちゃんに逢わにゃー死にたくない」と悲想な声で訴えていました。
その人の名前は、福田和子14才、女学院二年とありました。話を聞いてあげて、水を少し口に入れてあげると、水がのどを通ったかと思うや、呼吸が止りました。その子の死が、他に大勢死を見たが、あまり痛ましいので現在も尚、脳裏から離れません。
第二次被爆も知らない私は、被爆者がいなくなるまで働きました。

*別紙2
渡り廊下を点検していると「お姉ちゃん、お姉ちゃん」というかすかな声がするので近づいて見て思わず「アッ!」と息を呑みました。
声の主は全身焼けただれて、一見、男女の区別がつかない人でした。
「看護婦さん。私の胸ポケットに定期券があるから取って下さい。そこに顔写真があるでしょう。その顔と今の顔と似ていますか?」と動けない体で必死にもがいて訴えるのです。そこには、住所と福田和子という名前、女学院二年、十四歳と書いてあり、おかっぱ頭の理知的な顔の写真が貼ってありました。その少女は焼けて皮がぶら下がり、赤身が出て言葉では表現できないありさまでしたが咄嗟に「似てるよ。可愛いね」と返事をするしかありませんでした。
「そこに住所が書いてあるでしょう。お母ちゃんを呼んで来て下さい。お母ちゃんに会わんと死にたくない。お願いします。お母ちゃんを呼んで来て…」と、とぎれとぎれに訴えます。
十四歳といえば、私といくらも違いません。必死に母を求めるその少女の事が、他人事とは思えず、何とかしてあげたい気持ちで一ぱいでしたが、その直後、少女は声が出なくなり、言葉にならない状態になりました。
すぐ水を少しずつ口に流し込んであげましたが、その水がのどを通ったかと思うと、呼吸が止まってしまいました。
他に死んだ人は数え切れませんが、死の直前まで言葉を交した少女の死が、あまりにもいたましく、私の胸に焼きついて、三十七年経った現在でも、少女の顔が浮かんでは消え、夢の中にも再三、現れてくるのです。あの少女の遺骨は家族にわたっただろうかという思いが今だに消えないのです。

*別紙3
又戦後三十四年が過ぎるのに、今だに頭から離れない一人の少女の死がある。
病院の片隅に、ムシロをかぶって寝ている一人の少女が何か言った様で、ふり向くと、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と、力なく呼ぶ声に心を引かれ、「水を頂戴」と云う。水をあたえると、その少女は、丸焼けで、胸の所だけ少々服が焼け残り、そのポケットを(見るように)うながし「中の写真を出して下さい。その写真と、今の顔と似ていますか」と聞かれた。
その定期券には、住所、年令、名前、血液型、福田和子十四才、女学院二年とある。
ハッと我にかへり「似ているよ、かわゆいネ」と、言葉を返すしかなかった。
少女は尚「その住所にお母ちゃんが居るから呼んで来て、お母ちゃんにあわにゃー死にたくない」と、しぼる様に訴へて、動かない体を必死で、動かそうとする。もう一度水をあたえる。その水がのどを通ったかなあーと思ったら、そのまま呼吸が止まった。
なんとむごい事か、他に死は大勢見たが、死の直前まで言葉を交した少女、私の胸の中は張りさけんばかりの怒り、どこへこの気持ちをぶっつければいいのか、戦争はもういやー争わない平和がほしい。
サイズ(cm) 27×38
展示の説明文

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