トップページ原爆の絵子ども3人で生活するために13才で就職した
識別コード | SG-0580 |
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絵の内容 | 子ども3人で生活するために13才で就職した |
作者名(カナ) | 尾崎 稔(オザキ ミノル) |
作者名(英語) | Minoru Ozaki |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 尾崎 稔 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/11 |
情景場所 | 広島管理局試験場 |
情景場所旧町名 | 松原町 |
情景場所現町名 | 松原町 |
爆心地からの距離 | 2570 |
ブロック別 | 牛田・広島駅周辺地区 |
作者による説明 | *絵中 2020年令和2年 3月 尾崎稔 88才 画 13才の就職(子供3人で生活するため) 国鉄に受験したが、年令が15才以上のため"不合格"。 管理局Aさんのご藎力で、何とか合格したがこの時期にはまだ人情が残っていた(昭和20年11月頃) 通信士募集 國鉄 広島管理局試験場(現・駅前郵便局の処) 歳は? (不合格・年令不足) なやんでいると管理局のAさん(段原居住)が事情を聞いてくれて、再受験するよう云われた。 就職先 S20年12月 國有鉄道広島通信区 広操分区 通信士 S21年1月 同上通信区本区倉庫 倉庫手 S22年4月 退耺(父・南支より引揚げのため) (市内中学校へ2年落第して編入) 十三才→十五才 Aさんが履歴書訂正 当時は身分を証明する公の場が機能していなかった。 |
サイズ(cm) | 27×38 |
展示の説明文 | 作者 尾崎稔さん(被爆当時13歳) 尾崎稔さんは、通学途中に被爆。左顔面や手を熱線で焼かれ、坂町の収容所に運ばれました。やけどで口半分が開かず、寝たきりの状態で、周りの人は次々と亡くなっていきました。8月20日に親族が迎えに来るまで、尾崎さんは、生死の境をさ迷いました。建物疎開作業に動員されていた母、自宅にいた妹と祖母は行方不明のままです。 就職 子ども3人で生活するため、13歳で就職した。 |