識別コード | SG-0579 |
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絵の内容 | 戸坂村から徒歩で日赤へ通う |
作者名(カナ) | 尾崎 稔(オザキ ミノル) |
作者名(英語) | Minoru Ozaki |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 尾崎 稔 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8終わり頃 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | *絵中 広島日赤への通院(叔母の苦労) 子供3人への生活補助、指導は苦労の連続だったと思う。 兄弟が「腫瘍」になり、日赤(広島)への通院が決まり、芸備線、汽車でと思っていたが、叔母より"徒歩通院”と云われ、困惑したが実践する内、多々世間のこと、人間関係が分る機会があり成長していった。あえて苦労を与えた裁量には感謝しかない。 (片道)戸坂村から広島日赤へは約5㎞あり、2時間前後かかった。 ◎安芸郡戸坂村クルメギ 牛田 工兵橋 白島 基町 ●(原爆ドーム) 紙屋町 国泰寺町 ●千田町(日赤) 元安川 中島 吉島 本川 舟入 江波 天満川 観音 大田川 広島へ 牛田・不動院 帰途空腹時は、不動院(牛田町)前にあった小さな食堂で芋粉蒸し、ダンゴを食べた。叔母さんとお姉さん共に「なじみ」になった。 2020年令和2年3月 尾崎稔 88才 画 |
サイズ(cm) | 27×38 |
展示の説明文 | 作者 尾崎稔さん(被爆当時13歳) 尾崎稔さんは、通学途中に被爆。左顔面や手を熱線で焼かれ、坂町の収容所に運ばれました。やけどで口半分が開かず、寝たきりの状態で、周りの人は次々と亡くなっていきました。8月20日に親族が迎えに来るまで、尾崎さんは、生死の境をさ迷いました。建物疎開作業に動員されていた母、自宅にいた妹と祖母は行方不明のままです。 広島日赤への通院 弟の手が疥癬になり、5㎞の道のりを2時間かけて徒歩で通院した。 |