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トップページ原爆の絵「グラマン戦闘機」

原爆の絵

識別コード SG-0563
絵の内容 「グラマン戦闘機」
作者名(カナ) 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ)
作者名(英語) Seigo Nishioka
当時の年齢 13歳
寄贈者名 西岡 誠吾
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/9(時刻)夕方
情景場所 宇品沖
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 *別紙
8月9日の記憶 令和元年盛夏 西岡誠吾
まえがき 私は爆心地南2㎞で被爆して、火傷と怪我をし、多くの人に助けられました。
兵隊さんの献身的な援助を受け、収容所へは担架に担がれ、トラックや船で次の通り移動しました。
8月6日~7日 広陵中学校(宇品)
8月7日~9日 暁部隊(宇品 陸軍船舶隊)
8月9日~15日 横浜国民学校(坂町 横浜小学校)
8月15日~ 親戚宅(尾道市因島原町)
この期間で、「8月9日」の記憶について記述します。「あの日」のことは、昨日の事の様に記憶をしていますが、70余年の経過と加齢に伴い、一部記憶の薄れたところもあります。

「2 グラマン戦闘機」
夕方、暁部隊の兵舎から担架に乗せられて、収容所の移動が始まりました。何処へ連れていかれるのか、とても不安でした。
暫く進むと潮の香がして、船のエンジン音が聞こえてきました。被爆者を次々と船に乗せ、いっぱいになるとエンジンの音が更に大きくなり宇品を離れて行きました。
被爆者を乗せた船は、似島方面と坂方面の二手に分かれて進んでいました。
船が暫く進んだころで、飛行機の大きな爆音が近づいて、似島方面へ行く船の近くに爆弾を落とし、大きな水柱が立ちました。幸い船には当たらなかったが、水柱の波で木の葉のように船が揺れていました。低空で飛んできた飛行機は、アメリカの戦闘機「グラマン」でした。
飛行機は方向を変え、私たちが乗っていました坂方面行きの船を目がけてバリバリと機銃掃射をはじめました。パイロットの姿がはっきり見えました。機銃掃射の弾は船の横5m位の所に、シュシュと海の中へ落ちていました。船の中はパニック状態で女性は悲鳴を上げていました。
グラマンは向きを変え高度を上げながら来た方向へ飛んで行きました。
アメリカのB29爆撃機とグラマンは憎き敵機の代名詞でした。
グラマン戦闘機から発射された爆弾や機関銃が命中しなかったのは、パイロットの技能未熟だったのか、単なる脅しだったのか、今でも考えています。
サイズ(cm) 21×29.7
展示の説明文 作者 西岡誠吾さん(被爆当時13歳)
県立広島工業学校1年生だった西岡誠吾さんは、学校内で被爆しました。気がついた時には、校舎の下敷きになって身動きが出来ず、どうにか助け出されたものの、顔や手にはやけどを負い、足にも傷を負っていました。

グラマン戦闘機
船で宇品町から坂町の収容所に運ばれる途中、アメリカの戦闘機「グラマン」の機銃掃射を受けました。パイロットの姿がはっきり見えました。

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