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原爆の絵

識別コード SG-0521
絵の内容 防空壕の動員作業
作者名(カナ) 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ)
作者名(英語) Seigo Nishioka
当時の年齢 13歳
寄贈者名 西岡 誠吾
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 昭和20年春入学した県工1年生は一生懸命勉強をしていました。しかし、戦局が厳しくなり、動員作業が多くなりました。
5月のよく晴れた朝。芸備線の矢賀駅から山に向かって、足並み揃えて行進しました。辿り着いたところは、大きなトンネルを兵隊さんが掘り進んでいました。それは兵器を疎開する「防空壕」でした。
私たち県工1年生は、兵隊さんが掘りだした土を運び出す作業でした。現在のような建設機械はなく、全て手作業でした。
防空壕の天井が高いので、兵隊さんは前後2段に別れ、ツルハシを使って掘り進みます。別の兵隊さんがシャベルで掘った土を後方へすくい投げます。
私たちは大きな声で兵隊さんに「お願いします」と言って、土の運搬用の「もっこ」を持っていきます。すると、2人の兵隊さんがシャベルで「もっこ」に土を山盛りすると「ヨシッ」と言い、私たちは「有難うございました」とお礼を言って防空壕の外へ土を運び出します。
運び出した土は山道に沿って捨てて、二輪車が通行できるよう道幅を広げました。武器を運ぶためです。新しくできた道には木の枝を敷いてカモフラージュしていました。敵の飛行機に見つからないためです。
防空壕内は「ひんやり」として涼しいが、うす暗く、何だか臭い匂いがしました。照明はトーチランプのようでした。
兵隊さんは皆「おじさん」のようで、若い兵隊さんはいませんでした。
私たちは「もっこ」を担ぐのは初めてでした。身長が同じ者、二人が担ぎます。「もっこ」が左右に揺れ、地面が柔らかくて足を取られ難儀をしました。数回運ぶと、二人の足幅や足並みが揃い上手になりました。
最初は小学校の遠足気分でしたが、空腹と肩の痛みとの闘いでした。戦争に勝つことを信じて頑張りました。年は僅か12歳や13歳でした。
あれから72年の歳月が過ぎ、加齢と共に記憶が薄れてきました。被爆の生き残りの友は次々と旅立ち、また病に伏し、記憶を正すのが困難になりました。
芸備線の矢賀駅か矢口駅か何日作業したのかクラス別の作業かと分からなくなりました。
防空壕はどのように使われたのか、現在はどのようになっているのか分かりません。
県工に入学した喜びを共にした「亡き友」の思い出の一コマです。
平成29年8月6日 被爆当時 電気科1年 西岡誠吾
サイズ(cm) 29.8×42
展示の説明文 もっこを担ぐ
作 西岡誠吾 当時13歳
「もっこ」を担ぐのは初めてでした。
空腹と肩の痛みとの闘いでした。

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