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トップページ原爆の絵復興のシンボル100メートル道路

原爆の絵

識別コード SG-0507
絵の内容 復興のシンボル100メートル道路
作者名(カナ) 横田 礼右(ヨコタ ヒロスケ)
作者名(英語) YOKOTA Hirosuke
当時の年齢 4歳
寄贈者名 横田 礼右
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 *別紙
平和都市広島目玉の1つに100メートル道路がありました。昭和21年2月25日広島市復興審議会第一回会議で委員長の藤田若水元市長により、その構想が公にされました。その内容は『市の将来人口35万人緑地132万㎡、基地50万㎡比治山公園から己斐間に100メートル道路を建設する』と言うもので、焦土と化した広島市の都市再開発の区画整理事業の一つとして道路区画整備の一環として100メートル道路工事が開始された時には、最初市民の間では見た事のない広さに『将来、飛行機の滑走路になるのでは』のうわさもありました。三川町から比治山の鶴見橋を除き、その後道路として完成し通行も可能となりましたが、当時は緑地の整備も進まず殺風景で、ただ広いだけでムダと非難する市民もいました。当時、東の鶴見橋付近から三川町までの100メートル道路は道路巾の確保はされていても、道路には約1mの盛土が幾重にも並んでおり、車の通行はできずまだ道路も未整備のままの為、車の心配もなく子供の恰好の遊び場となっていました。当時は現在のようにテレビもなくテレビゲームもありません。家の中で遊ぶことはなく、野外での遊びが中心で、遊び道具もないため、男の子は石投げ、土投げ、鉄道草を抜いて投げ合う戦争ごっこをよくやったものです。キケンな遊びでも親に叱られた事はありません。昭和22年4月戦後初めて民選による市長に浜井信三氏が当選して、ここに民主主義による新しい広島市が発足し、広島市が施工者により復興都市計画が立案され、二度と被爆の災害等が起きない安全で住みよい街づくりのため大規模な土地区画整理事業が始まりました。戦前の密集市街地は焼野原となりましたが、災い転じて福となすで、あらたな発想でライフラインを考慮し、道路、公園、公共施設と宅地や建築物を一体的に計画配置し、安全性はもとより総合的に整備された優良かつ、理想的な防災街づくりが可能となりました。
原爆により75年間草木も生えないと言われた焦土の100メートルの盛り土に、背丈も高く、真っ直ぐ伸びた太くて強い濃い青緑の鉄道草(学術名ヒメムカシヨモギ)があちこちに生えはじめましたので子供ながら植物の生育をみて、これで生きられると元気づけられた事を覚えています。
同じく原爆により75年生えないといわれた焦土にいち早く咲いた花で市民に復興への希望と力を与えてくれた、暑さや乾燥にも強く濃い青緑の葉は厚い皮質で細長く高さも3mにもなり、夏の白い花をつけるシロバナキョウチクトウが咲き乱れたのを見るにつけ市民も安堵で癒されたものです。キョウチクトウは後日『市の花』となりました。花は、他に紅色、黄色の花をつける種類のものもあります。
サイズ(cm) 20.4×28.9
展示の説明文

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