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トップページ原爆の絵チョコレートの誘惑

原爆の絵

識別コード SG-0506
絵の内容 チョコレートの誘惑
作者名(カナ) 横田 礼右(ヨコタ ヒロスケ)
作者名(英語) YOKOTA Hirosuke
当時の年齢 4歳
寄贈者名 横田 礼右
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945
情景場所 広島県総合グランド
情景場所旧町名 南観音町
情景場所現町名
爆心地からの距離 3500
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
作者による説明 *別紙
広島市の復旧は、被爆直後の軍を主力として救護活動から始まり、負傷者の収容、治療はもとより、無数の死体の処理もてきぱきと行われ、急がれた幹線道路も清掃され、復旧物資搬入車両等の通行も可能となりました。被爆後もなお戦争中のため、軍都として軍事上の重要基地の機能回復が急がれ、応急措置ながらライフラインの通信、電気、水道、運送機関も着手されてきましたが、8月15日の終戦により、軍隊が解散すると復旧作業も停滞しました。
南観音総合グランドも終戦までは軍の管理下で救護や復旧の基地でしたが終戦で軍は解散、かわって連合軍総司令部の管理下となり厳重な警備がひかれており、日本人の総合グランド使用は一切不能となりました。
南観音地区にも、被爆により両親を亡くした孤児が多数たむろしていましたが、誰が言い始めたか何処で覚えた英語か、いつとはなしに総合グランドの連合軍の出入ゲートに、孤児がむらがり、『パパママピカドンでハングリー、ハングリー』とチョコレートやチュウインガムをせびるのが日課となっていました。特に米軍が多く、どの兵士も拒むことなく子供がねだるとくれました。私を始め近所の子供は孤児ではなかったが、もらえるのが楽しみで同様にせびって何度となくチョコレートを貰い食べた記憶があります。戦中も食料難、戦後はさらに酷く、両親も子供におやつ等は与えられる状況でなく、特に饅頭、砂糖や飴などの甘い物は無い時でしたので、敵軍に媚びて乞食のように物をもらうなど極端に嫌う風土の日本でしたので、両親に叱られる事を覚悟でチョコレートをもらって食べていましたが、どこの両親も見て見ぬふりをきめていた現実がありました。『まさに当時のほろ苦く甘い思い出』です。
原爆により75年間草木もはえないといわれていた為、8月末、私達家族は、南観音の社宅を離れ母親の里である安芸郡江田島町切串鷹巣に疎開致しましたが、その疎開先で9月17日夜半から枕崎台風の影響により山の崩壊、山津波の直撃をうけましたが、数分前に全員避難し、又九死に一生の体験も致しました。隣の切串では、山津波で145名の尊い命を失っています。当時、被爆負傷者が山崎病院に搬送され治療入院中でしたが、病棟も山津波に飲み込まれた為、死亡した人もその中に含まれると江田島町史に記載されています。鷹巣で山津波にあった私達家族は1年後爆心地1キロの広島市三川町に住居を移動しました。
サイズ(cm) 20.4×28.9
展示の説明文

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