識別コード | SG-0500 |
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絵の内容 | 広島三菱造船所社宅にて被爆 |
作者名(カナ) | 横田 礼右(ヨコタ ヒロスケ) |
作者名(英語) | YOKOTA Hirosuke |
当時の年齢 | 4歳 |
寄贈者名 | 横田 礼右 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | 南観音町 |
情景場所旧町名 | 南観音町 |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 3500 |
ブロック別 | 吉島・舟入・観音地区 |
作者による説明 | *別紙 当時は、現在のような鉄筋コンクリートの建造物もほとんどなく、一般住宅は、木造平屋建てがほとんどであり、私達家族の住んでいた社宅長屋も簡単な木造建築物でした。その社宅は爆心地から4キロはなれた広島湾に面する南観音町にあり、すぐ東側に広大な総合グランドがあります。戦中と言うことでもあり、食糧や物資も乏しく貧しい生活でしたが、すくない食糧、自給自足の為の野菜の種や苗を分け合ったりして、向こう三軒両隣りお互い助け合い寄り添いあって生活している質素な暮らしぶりでした。戦時中でもあり、空襲警報がよく発令されていましたが、多くは夜間であり、爆撃の目印となるため夜間の照明は禁止統制され、警報の発令ごとに婦女子は防空壕へと出入りを繰り返し寝る暇もないほどで、警報が解除されると市民はほっと一息ついたものでした。 又真暗な夜空に、敵機を探して攻撃する為の白い直線のサーチライト筋が天空をかけ走っているのが強烈な印象として残っています。空襲の少ない昼間は、父は早朝より造船所に勤務し、母は警報にびくびくしながらも、食事の支度や畑仕事、掃除洗濯等の雑用に追われる毎日でした。2才年上の姉は小学校に、私は常に母と一緒に行動していました。 |
サイズ(cm) | 20.4×28.9 |
展示の説明文 |