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原爆の絵

識別コード SG-0496
絵の内容 建物疎開作業のようす
作者名(カナ) 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ)
作者名(英語) Seigo Nishioka
当時の年齢 13歳
寄贈者名 西岡 誠吾
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945
情景場所 富士見町
情景場所旧町名 富士見町
情景場所現町名 富士見町
爆心地からの距離
ブロック別 国泰寺・千田地区
作者による説明 *別紙
昭和20年4月、県立広島工業学校に入学した私達1年生は、被爆まで4カ月間に建物疎開作業を3回従事しました。初めて作業した富士見町の思い出をお話しします。
中学生の作業内容は、義勇隊が倒壊した家屋の柱や板の回収、木切れやゴミの焼却及び道路の清掃でした。学校を離れての作業で解放感があり、義勇隊や中学校が大勢来ていましたので、みんな張り切っていました。
ある日、私達が柱にロープを掛けて引っ張っていたら、近くで「一、二のサンヨウ。一、二のサンヨウ。」と叫び声が聞こえました。近くで作業をしていた中学校や義勇隊の皆さんは驚いて大声がする方を見ていました。その大声は「山陽中学」の生徒でした。それを聞いた私達「県工1年生」は大きな声で「一、二のケンコウ。一、二のケンコウ。」と叫びながらロープを引っ張りました。小学校を卒業したばかりの無邪気な少年です。お互いに学校を愛する気持ちは同じでした。
それを見ていた担任の橋本先生は苦笑いをしていました。解体した家屋の柱や板は学校に持ち帰って防空壕構築用に利用していました。私達が作業している傍で、涙を流しながら立っている女性がいました。それは家族が幸せに暮らしていた自分の家が解体されるのを悲しんでいるようでした。私は「戦争に勝つために自宅が無くなるぐらいで涙を出すダメなおばさんだ」と思っていました。私も家庭を持ち、マイホームを建てました。あの時の泣いていた女性の悔しさ、悲しさが痛いほど分かります。
広島の街の中央には美しい平和大通りがあり、賑やかなイベント等が催されていますが、家屋の強制疎開の悲劇と重なって想いだされます。
以上 2016年夏 西岡誠吾
サイズ(cm) 29.7×42
展示の説明文

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