トップページ原爆の絵紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」私の葬式
識別コード | SG-0482 |
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絵の内容 | 紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」私の葬式 |
作者名(カナ) | 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ) |
作者名(英語) | Seigo Nishioka |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | 西岡 誠吾 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | |
情景場所 | 生口島 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | *別紙 12時間かかってやっと瀬戸内海の生口島にある親戚の家にたどり着きました。「こんばんは、こんばんは」と玄関で声を掛けました。戦争が終わっても灯火管制のままでした。足元には履物が沢山ありました。もう一度大きな声で「こんばんは」と叫ぶと中から従兄の嫁さんが出てきました。私が名前を名乗ると嫁さんは「キャー」と叫び、這うようにしてみんなが居る部屋に行きました。 長兄が私の学校に尋ねたら、1年生は全員死んだと言われ、私は死んだことになっていました。そのため私の葬式の準備について親戚が集まって相談をしていた時でした。薄暗い玄関で顔に包帯を巻き、杖を持って立っている姿を見て「幽霊」と思ったようです。 翌日から伯母さんの手厚い看護を受け、学校に復帰できるまで元気になりました。 *別紙2 親戚の家に着いた時あまりの火傷にみんなは驚き、直ぐに村の医者を呼びました。駆けつけた女医は「私は内科医だから治療はできません」と言って帰りました。すると、一人の伯母さんがみんなを指図して治療に掛かりました。まず、包帯を置き朱ウールで濡らしながら取り外し、ピンセットでウジ虫を取り除きました。続いて血膿を綺麗に拭き取りました。翌日からは、大根おろしで生のジャガイモを擦って火傷の部位に塗りました。塗ったジャガイモが渇くとその上に塗り重ねました。1カ月位するとジャガイモを塗った層も厚くなり、恐る恐るジャガイモの層を剥がしました。すると白く薄い新しい皮膚が出来ていました。伯母さんやみんなが大喜びでした。顔を洗えるのはその後2週間位掛かりました。2)ケロイド 被爆4カ月後に学校に行きました。私と同じ距離で被爆した友人の顔には酷いケロイドがありました。食糧難時代に伯母さんは私のためにジャガイモを沢山使って火傷を治してくれた事を感謝すると共に、年寄りの知恵に驚きました。火傷の部位は1年位薄い赤色でした。その後20年位は入浴後やお酒を飲んだ時には赤くなりました。今は加齢と共に目立ちません。3)外科医の話し 外科医と雑談をした時ジャガイモの話をしたら、外科医は「あなたは非常にラッキーでした。今そんな治療をすると雑菌が多いので命がないよ。ジャガイモは医学的効果がないが、火傷をした皮膚を乾燥しないように潤いをもたせ、ケロイドができなかった。火傷の治療は絶対素人がしてはならない」と言いました。 被爆当時の生き地獄を知らない若い外科医でした。 |
サイズ(cm) | 29.7×42 |
展示の説明文 | 「少年・十三歳の原爆体験」 作/西岡誠吾(ニシオカ セイゴ)氏 12時間掛かってやっと瀬戸内海の島にある親戚の家にたどり着きました。「こんばんは、こんばんは」と玄関で声を掛けました。私が名前を名乗ると、中から出てきた従兄のお嫁さんが、「キャー」と叫び、這うようにしてみんなが居る部屋に行きました。長兄が私の学校に尋ねたところ、1年生は全員死んだと言われ、私は死んだことになっていました。薄暗い玄関で顔に包帯を巻き、杖を持って立っている姿を見て「幽霊」と思ったようです。 翌日から伯母さんの手厚い看護を受け、学校に復帰できるまで元気になりました。 |