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トップページ原爆の絵紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」担架で運ばれる

原爆の絵

識別コード SG-0479
絵の内容 紙芝居「少年・十三歳の原爆体験」担架で運ばれる
作者名(カナ) 西岡 誠吾(ニシオカ セイゴ)
作者名(英語) Seigo Nishioka
当時の年齢 13歳
寄贈者名 西岡 誠吾
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/7
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 *別紙
御幸橋西詰めから避難者の群れに入って、ぞろぞろと南の方に歩いて行きました。最初にたどり着いた収容所は広陵中学校でした。
夜中に目が覚めました。市内の火災で教室の中は明るく人の動きがはっきりと見えました。お腹がすいたので弁当を食べました。弁当は暑さでやや酸っぱくなっていましたが我慢をして全部食べました。食べながら母の安否が気になり涙がでました。
翌日の正午「暁部隊」の収容所へ移動、8月9日には坂村の横浜国民学校の収容所へ移動しました。収容所の部屋には被災者がぎっしり詰め込まれましたが、次々と息を引き取り、気が付けば半数になりました。苦しむ人、家族を呼ぶ人、発狂する人、それは生き地獄でした。

*別紙2
1)名前の誤記 暁部隊へ運ばれた時、受付の兵隊が収容所の名札を見て名簿を書いていました。私は担架に乗せられたまま受付に行きましたが、上着の左胸の名札の黒い字は焼けて読みとれませんでした。私は口頭で名前を告げました。
その時、兵隊は私の名前「誠吾」を「省吾」と記入していました。火傷で口が開きにくいので正しく伝わりませんでした。これは、私が暁部隊を出て次の坂村の収容所に移動した3日後、長兄が探しに来た時誤記が分かりました。2)8月9日 昼食後、周りの収容者が「長崎も大きな爆弾が落ちた」「ソ連が参戦した」と騒いでいました。子供心に不安な気持ちになりました。3)トイレ 私は建物の壁を伝って何とか一人で用を達することは出来ましたが、寝たきりの被災者はどうしたのかと、今になって考えています。誰も手助けをする人はいませんでした。真夏の蒸し暑い部屋の中は「蠅」が飛び回り悪臭が漂っていました。
サイズ(cm) 29.7×42
展示の説明文 「少年・十三歳の原爆体験」
作/西岡誠吾(ニシオカ セイゴ)氏
最初にたどり着いた収容所は広陵中学校でした。夜中に目が覚めました。市内の火災で教室の中は明るく人の動きがはっきりと見えました。お腹がすいたので弁当を食べました。食べながら母の安否が気になり、涙がでました。
8月9日、坂村の収容所へ移動しました。収容所の部屋には被災者がぎっしり詰め込まれましたが、次々と息を引き取り、気が付けば半数人になりました。
苦しむ人、家族を呼ぶ人、発狂する人、それは生き地獄でした。

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