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トップページ原爆の絵看護にきた婦人会のお姉さんにボタモチをもらう

原爆の絵

識別コード SG-0433
絵の内容 看護にきた婦人会のお姉さんにボタモチをもらう
作者名(カナ) 尾崎 稔(オザキ ミノル)
作者名(英語) Minoru Ozaki
当時の年齢 13歳
寄贈者名 尾崎 稔
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/16~17
情景場所 小屋浦海水浴場収容所
情景場所旧町名 安芸郡坂町小屋浦
情景場所現町名 安芸郡坂町小屋浦
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 生命(イノチ)をもらったボタモチ S20.8.16~17 小屋浦海水浴場被爆者収容所
被爆後69年間生きながらえたのは、当時貴重な1ケのボタモチであったと思う。8月15日終戦。軍隊が解散し、被爆者看護は地域(小屋浦、坂町)婦人会などに変わった。私は顔半分の火傷で口もまともに開けられず1日1ケの小さなオニギリも食べられず、半餓死状態であった。
8月16日頃、坂町婦人会の人達が看護に来られた。その中のお姉さんが声を掛けて下さり話している内、「何か食べたいものある?」と聞かれ、咄嗟に出たのが「ボタモチ!!」だった。
お姉さんが観音様か、女神に想えた。当時の食料難な時代、夢物語りと思っていたが、後日目の前に「ボタモチ」があった。どのように食べ、どんな味だったか思い出せない! 以後、少しずつ食欲も出て回復して行った。
このお姉さんとは、成人になっても多々お世話になった。常に感謝している。
被爆時、修道中学2年生13才 (画)2014年7月 82.7才 尾崎稔
サイズ(cm) 38×27
展示の説明文 生命をもらったボタモチ
8月16~17日 小屋浦海水浴場 被爆者収容所
作者/尾崎稔(当時13歳)
<作者のことばから>
私は顔半分の火傷で口もまともに開けられず1日1個の小さなオニギリも食べられず、半餓死状態であった。
8月16日頃坂町婦人会の人達が看護に来られた。その中のお姉さんが声を掛けて下さり話している内、「何か食べたいものある?」と聞かれ とっさに出たのが「ボタモチ!!」だった。
お姉さんが観音様か、女神に思えた。
当時の食糧難な時代、夢物語りと思っていたが、後日目の前に「ボタモチ」があった。
どのように食べ、どんな味だったか思い出せない!

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