トップページ原爆の絵鷹野橋、臨時救護所。「大竹応援隊」「廿日市応援隊」などの腕章もみられる。おむすびなどを手渡していたが、ほとんどの負傷者は喉を通らない様子だった
識別コード | SG-0425 |
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絵の内容 | 鷹野橋、臨時救護所。「大竹応援隊」「廿日市応援隊」などの腕章もみられる。おむすびなどを手渡していたが、ほとんどの負傷者は喉を通らない様子だった |
作者名(カナ) | 五島 弘行(ゴトウ ヒロユキ) |
作者名(英語) | Hiroyuki GOTO |
当時の年齢 | 17歳 |
寄贈者名 | 五島 弘行 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/7 |
情景場所 | 鷹野橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 1200 |
ブロック別 | 国泰寺・千田地区 |
作者による説明 | 絵中 ⑦1945.8.7 タカノバシ 臨時救護所 (大竹応援隊、廿日市応援隊などの腕章も見られる。 2012.7.30 五島弘行 五島さんのお話から 当時17歳で、宇品町にあった広島逓信講習所の高等部の講習生だった。召集を受け、1945年(昭和20年)8月28日には比治山にあった陸軍通信部隊に少年通信兵として入隊することになっていた。担任教官に召集令状がきたことを報告するため、校舎2階の窓側で朝礼が終わるのを待っていた。そろそろ終わりそうなのでグランドに出て、教官に挨拶しようとしていたところ、友人が「落下傘のようなものが落ちてきている!」と叫んだ。咄嗟に北側の空に目を向けた瞬間、かつて感じたことのない轟音と光線、熱線が襲来した。咄嗟に目と耳を押さえて窪地にかがみこむ防空姿勢をとった。ちょうど建物の影になっていたため、幸いにもケガは負わなかった。翌8月7日、教官に帰郷の許可を貰い、郷里の山口へ向かった。途中、鷹野橋付近では、テントを張った臨時救護所ができており、「大竹応援隊」「廿日市応援隊」などの腕章をつけた人々がおむすびなどを手渡していたが、殆どの負傷者は喉を通らない様子だった。「あんたもやられたのか」と問われ、むすびを2つ貰った。 |
サイズ(cm) | 25.5×18 |
展示の説明文 |