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トップページ原爆の絵原爆炸裂1.5秒後の広島市街

原爆の絵

識別コード SG-0340
絵の内容 原爆炸裂1.5秒後の広島市街
作者名(カナ) 泉原 寅男(イズハラ トラオ)
作者名(英語) Torao Izuhara
当時の年齢 23歳
寄贈者名 泉原 寅男
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/6(時刻)午前8時15分
情景場所 太田川
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離 610m
ブロック別 平和記念公園・周辺地区
作者による説明 この絵は題をつけるとすれば「原爆炸裂1.5秒後の広島市街」とでもしましょうか。原爆が炸裂した時赤い火球が見えたと云われますがこれは小生は見ておりません。ただ室内が現在のストロボの光線のように明るく光って何かと思い窓の外を見た時赤い焔の円板が真黒の煙を曳いて100mくらい先の二階家の屋根に消えたのを見たのです。焔板の直径はガラス窓の大きさと爆心との距離から比例計算して300mくらいと考えられ赤い球がそのまま落ちたのではないかと考えております。この時小生は白島の現在安田女子高になっている工兵隊の兵舎の二階にいたのです。地図で見るとドームのちょうど2㎞の地点で、従って炸裂から5秒近くたって爆風で吹飛ばされる直前迄焔の素晴しく美しい色に見惚れていました。4、50年もたって、いろんな情報が入るようになりあの焔はストロンチウムではなかったろうかと思うようになりました。それは原爆内でウラニウムを前後に隔離するのにストロンチウムが使われたこと、化学実験で焔色反応という焔の色で物を識別する実験をした時そのとても美しい色でストロンチウムというものを覚えていたこと、更に昨年新聞に出ていたのですが、花火のメーカーが云うのに最近の花火にはストロンチウムが使われだしたとのこと、ストロンチウムも放射性物質なのですが、これらから焔の円板はストロンチウムだと確信しました。ただそれがどんな色だったか肝腎の色がわからないのですが、絵を画いた場所としましては、寺町と本川町の境から少し南の太田川畔でドームから500mの地点を設定しました。相生橋の付近は以前に伊藤様から戴いた戦前戦後の写真等を参考にしましたが、街の実際の様子は全く知りません。時間的には原爆炸裂の時数千度の熱で總ての物が燃え始めたけれどまだあまり火が見えない時ということにしました。街の色が全くわからないということもあって敢えて墨を使いました。右側の夾竹桃(のつもり)は此の花を見ると何故か”8月6日”というのを思い出すので使ったに過ぎません。此の時点で爆風が今まさに地上に到達しすべて物が吹飛ぶところで焔の円板はまだ地上300mくらいの位置に在ったと考えました。この黒煙の筒の話は20年くらい前朝日新聞に出、その時見たという人が2人いたように思います。いずれにしても昔から絵は苦手でましてや墨絵など画いたこともないので変なものになりました。
サイズ(cm) 55.2×45.7
展示の説明文 原爆炸裂1.5秒後の広島市街
作者/泉原寅男氏
1945年(昭和20年)8月6日 午前8時15分
爆心地から約610m 太田川河畔
作者のことばから:「原爆が炸裂した時赤い火球が見えたと云われますがこれは小生はみておりません。ただ室内が現在のストロボの光線のように明るく光って何かと思い窓の外を見た時赤い焔の円板が真黒の煙を曳いて100mくらい先に二階家の屋根に消えたのを見たのです」

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