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トップページ原爆の絵昭和二十年八月七日夕刻倉敷駅のホームで見た光景

原爆の絵

識別コード SG-0221
絵の内容 昭和二十年八月七日夕刻倉敷駅のホームで見た光景
作者名(カナ) 濱田 佳代(ハマダ カヨ)
作者名(英語) Kayo Hamada
当時の年齢 20歳
寄贈者名 濱田 佳代
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/7(時刻)夕刻
情景場所 倉敷駅ホーム
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
昭和二十年八月七日夕刻倉敷駅のホームで見た光景です。私は旧制岡山一女を卆業し旧制京都府立女専(現京都府立大)を出て未婚の女子は徴用令によりどこかへ勤めねばならず母校の教諭としてつとめました そして最上級の五年生を引率して倉紡万寿工場(現アイビースクエアー)へ一式陸攻の戦闘機のリベット打ちに動員されました ここは岡山一中(現朝日髙校)と岡山一女でした 今にして思へば生徒にリベット打ちをさせる等もう日本も破れかぶれであったのです 作業を終え岡山へ帰る上りの汽車をホームで待っていました 空襲警報の合間を縫ってです 学業は半分以下で軍需工場で生徒は働きました その時無蓋車三輌にズボンだけはボロボロに破れたのをつけた全裸の兵隊さんが皮膚はズルズルにむけ顔も体も血だらけで放心状態の人、立つことも出来ないような兵隊さんが満載されてゴトンと目の前に止りました。ほんの一、二分だったと思います そして又上へ向って無蓋車は動き出しました 一体どこから来てどこへ行くのでしょう?私達は息をのみました。すでに六月二十九日岡山は全市空襲で殆ど焼失。神戸も大阪も空襲をうけたと聞いていました 私の家も焼けてしまいました その翌日広島に新型爆彈が落とされたとききました そして長崎にもそしてロシアも参戦 日本は負けました 終戰の詔勅ではじめて天皇陛下の御声をききましたが負けたのです 私達は昭和十二年盧構橋事件に端を発し青春時代を戦争という時代に生きてきました 五・一五事件、二・二六事件は小学生の時です 写真もなく下手な絵でどのように描いていいのかわかりませんがこのような原爆の犠牲の方もいらっしゃったことをおしらせいたします 脳裡をはなれません
平成十七年五月 濱田 佳代(八十才)
後續三輌 機関車の形もうろ覚えです
サイズ(cm) 31×40.5
展示の説明文

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