識別コード | SG-0122 |
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絵の内容 | ざんげの記 |
作者名(カナ) | 濱田 義雄(ハマダ ヨシオ) |
作者名(英語) | Yoshio Hamada |
当時の年齢 | 26歳 |
寄贈者名 | 藤堂 清 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
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情景場所現町名 | |
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作者による説明 | **絵の中 ヨハネ・パウロ二世法王様 戦争は人間の仕業です。 ざんげの記 第二次世界大戦中ロ号上陸大演習。九州で行なわれた。 一.西部最大の陸軍基地中国軍管区司令部・西部第二部隊陸軍大佐平島周平殿付陸軍上等兵浜田義雄中国戦戦より南方戦々えとなった。昭和十七年秋・陸軍東練兵場より軍用列車で九州えその目的はマレー半島えの上陸のタメの戦々ジュンビだった。海上に集結して居た野戦部隊が敵地え上陸のタメの重大な大演習でもあった午前中に当地より軍用列車は西に向った。私は部隊長と友に列車に九州の福岡えそして陸軍部隊え一夜を明かし早朝又軍用列車え列車は西に向った佐賀驛を通ったのは夜中だった佐賀県松浦郡えそして部隊長と友に松浦病院え又一夜をすごした急がしい任務だった。当夜午前四時少々前、呂■■の松浜え防衛隊として上陸部隊え午前六時頃陸軍部隊は上陸その足で私は南え南えと向った。その日の夜は大雨だった伊万里えそして佐世保え本隊はケワシイ山々を雨になやまされ乍ら奥佐世保え向いその場所で大演習は終った。野戦部隊は伊万里よりその足で戦場えと向う。被爆者 浜田義雄 広島・・・・・・長崎 二.私が軍に召集されたのは現役兵として昭和十四年一月十日当西部第二部隊です。当時中国との戦々は増々はげしくなり戦争目的えのあらゆる訓練はきびしく教育を受けました。私は特訓を受けたのでその任務のタメ現隊にとどまり様々な業に一生懸命でした。南方戦々はあらゆる場所でした。マレー半島での戦々シンガポール作戦その仲に河村部隊がおり後に陸軍中将河村三郎殿であった。いよいよもって日本本土決戦えと言う急しい毎日でも有りました。そして私は広島市基町の陸軍幼年学校の場所赤穂師団司令部え私達は本土決戦えの大部隊昭和二十年八月二十二日に長野県の天瀧川奥え司令部をたむろし決戦えのテンテコ舞いの任務でした。しかし当月八月六日広島の街え早朝原子爆弾がおとされ私は司令部で被爆をし重傷を負いました。あのいまわしい出来事から長い長い年月今世界は広島長崎の悲しみ苦しみをもかえりみず核兵器は進歩増大し戦争がおきれば核戦争となり地球上に生きるすべての者は生きられないでせう。私はそのためにも原爆えの生き証人としてそして語り部として全世界え向けて訴えなければなりません。 非核東京宣言岡山・尾道反核平和団隊協議会被爆者・浜田義雄 |
サイズ(cm) | 32.5×29.5 |
展示の説明文 |