識別コード | SG-0104 |
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絵の内容 | 広島城付近 被爆後の様子 |
作者名(カナ) | 濱田 義雄(ハマダ ヨシオ) |
作者名(英語) | Yoshio Hamada |
当時の年齢 | 26歳 |
寄贈者名 | 藤堂 清 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 中国新聞政治面私と友に 日赤原爆病院長重藤院長 御調郡御調町立御調中学校 戦友清水軍曹 司令部デ私と友に 全世界が平和であるように 赤穂部隊とは旧歩兵第十一聯隊です部隊長以下千四五百名であり特に戦争えの体驛者兵士は多くほとんどの兵士は同年兵でもあった又師団の各部隊からも兵士は来ており本土決戦えのものであった 大芝土手ゴムの会社 黒い雨 原爆投下午前8時15分 被爆後午前9時30分 大田川 ←スイソウの水をノンデイタ ←私です ←大田川 黒い雨 軍服はちぎれ血みどろの私です ←黒い雨 安田女学校私が司令部で被爆した時当学校はるすであった 西白島町の道 大田川 私は傷ついて北え北えとのがれました その道中多くの被爆者の苦しみの声々でした 合掌 八月六日被爆の日の夜私は戸坂小学校にいた。八月七日の夜私は双葉山台地の国前寺で夜を明した水をくださ・・・い水を下さ・・・い叫びの声々々多くの被爆者は死んだ。軍人も死んでいた →被爆直後山陽本線大田川鉄■をのがれている被爆者 大田川で流れる被爆者 ←原爆を投下されたのは8月6日午前8時15分被爆直後の午前9時30分 戦後のブッシャリトウ 爆心地より一・八キロ 双葉山台地 工兵隊は大火 兵士達は火の仲をさまよう 爆心地より北東一・四百キロの双葉の里双葉山台地の惨状と国前寺赤穂師団司令部 工兵隊 白島小学校 東白島町神田国鉄 八月六日午前八時四十分ゴロ私は見る ←水を下さい ニキツ神社原爆の光で松の木はもえた 昭和二十年八月医学博士横路先生は中学校で被爆された 世界が保有の核ナクセヨ 東京童心社の本にのせられた絵 牛田の町は被爆直後バリバリと家はもえていた 私の入った銀行 **別紙 ことしも又広島長崎被爆から五十二年目をむかえます。 尾道市の反核平和団体で■■全世界が一日も早く核兵器を無くするようにと訴えます |
サイズ(cm) | 72×95 |
展示の説明文 |