識別コード | SG-0103 |
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絵の内容 | 広島陸軍幼年学校付近の被爆後の様子 |
作者名(カナ) | 濱田 義雄(ハマダ ヨシオ) |
作者名(英語) | Yoshio Hamada |
当時の年齢 | 26歳 |
寄贈者名 | 藤堂 清 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | |
情景場所 | 陸軍幼年学校付近 |
情景場所旧町名 | 基町 |
情景場所現町名 | 西白島町 |
爆心地からの距離 | 1,340m |
ブロック別 | 基町・白島地区 |
作者による説明 | **絵の中 ←中国軍管区司令部 広島第五師団後中国軍管区司令部基町陸軍火薬庫この弾薬庫は原爆被爆にタエ残った 燃えている陸軍病院 高純参謀大佐と友に師団長はこの事務所 大本営 強カナ爆風でお城は北に向ってくずれていた 女子テイシンタイ 師団無線防空壕→広島城 燃えていたくすの木 →大本営 →陸軍中国軍管区司令部 →野砲聯隊 被爆シテモエコロンデイタ 土手 ←陸軍儒品倉庫 衣服え火がついている のがれる私 ↑陸軍幼年学校の炊事場ショクドウニナッテイタ 軍用サイドカー 九九式歩兵銃 私達ガ被爆した所 被爆の前日三コ小隊来タ 被爆の日には本局から多くの慰問品が在り 原爆をオトサレタ前日司令部で私が受ケタ この場所で清水軍曹被爆 司令部事務所 原子爆弾をおとされた時戦友達と副官とともに兵舎に居た 此の正門は残されている 陸軍幼年学校の正門爆風デ 軍のサイドカア 防空壕→入口 コンクリート場 ←表門 ←師団副官の命令デ戦友と壕を掘った ←八月六日深夜空襲警報発令で師団副官清水軍曹らと友にこの壕えハイタ私 被爆前清水軍曹と私 多く戦友傷ツイタ ←原爆での爆風デコンクリートヘイワクズレタ 原爆を投下された時には司令部え実弾をおいていなかった。しかし弾薬庫がマ近にあったので何時でも 原子爆弾を投下された日の朝私は近くにあった陸軍火薬庫え重要な用事で行き司令部え帰り清水軍曹と友に任務についていて被爆(ピカーと光った)どーんと言音を聞いたとたん私は吹き飛ばされて崩れたガレ木のそこにうもれていて私の軍服は血どろ 便所 衛兵所 原爆放射能医学博士広島大学教授横路謙次郎先生は広島市内の中学校で被爆をされた この時私は陸軍部隊に■て被爆をしました 横路先生は広島の大学病院において当時の被爆の惨状を語り先生は原爆を許せないと私に申された 私が陸軍幼年学校に居た学校はアメリカがオトシタ原子爆弾で吹き飛ばされた師団司令部に居た戦友達もそして殺されて傷ついた、被爆直後目の前はマックラであった 砂を雨のごとくにかぶったそれは強力な爆風デアッタ 吹き飛ばされて焼き殺された アメリカは全くツミの無い市民をも殺し傷つけた許す事は出来ない |
サイズ(cm) | 54×61 |
展示の説明文 |