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トップページ原爆の絵多くの被爆者がバタバタと死なれた長い戸坂への道中

原爆の絵

識別コード SG-0074
絵の内容 多くの被爆者がバタバタと死なれた長い戸坂への道中
作者名(カナ) 濱田 義雄(ハマダ ヨシオ)
作者名(英語) Yoshio Hamada
当時の年齢 26歳
寄贈者名 藤堂 清
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/6(時刻)被爆後
情景場所 陸軍幼年学校、工兵橋北土手
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中(左から一枚目)
大田川
多くの被爆者はバタバタと死なれた長い戸坂への道中
赤穂師団司令部付で被爆した戦友達と共に→
私たちが被爆をしてこの戸坂小学校へ丁度正午だった→
陸軍幼年学校内に居て・・・・ピカ・・ト光ったとたんに私の体は吹き飛んでいた
**絵の中(二枚目)
昭和二十年八月六日午前八時三十分ごろの絵
オ・・・・イ
タスケテクレ・・
**別紙(絵に貼付)
原爆をおとされた一寸前私は司令部の重要な任務についていたのである
午前八時十五分ピカ・・・と青白く光ったとたんに私の体は陸軍幼年学校もろとも吹き飛ばされ身につけていた軍服はちぎれ運良く助かった
陸軍用品倉庫
沖縄本島が強敵連合軍の上陸により将兵はもとより多くの市民が犠牲となられた中国軍管区各部隊は早々第二總軍となり本土決戦部隊となる私達は旧歩兵第十一聯隊後西部第二部隊であるが赤穂部隊となる私に陸軍幼年学校へそして赤穂師団司令部へ命令下る部隊長つまり師団長河村秀郎中将
**絵の中(三枚目)
陸軍幼年学校内で被爆をし生きることの出来た私は被爆から五十四年もの長い長い年月をして私はすっかり年を取りました。被爆者の語り部として尾道から被爆地の広島へ今尾道市民の一人として反核平和運動に一生県命に行なっております
この絵は私が戸坂町の方へとのがれる道中に見たのです被爆の日の午前九時半ころです
爆心地より北方1キロ500m
広島市への原子爆弾投下の日の朝
多くの被爆者は傷つきながらのたうち苦しみながらのがれ行く
その道中次々と死なれた軍人被爆者の私は戦争がもたらしたこの深い悲しみことを思うにもう戦争はまっぴらと口ばしり重い足を引きづり乍らのがれたのです
絵 浜田義雄
被爆後の午前九時半ごろ陸軍工兵橋北土手のがれ行く被爆重傷者
私は被爆をし傷ついて戸坂に向ってのがれた多くの被爆者の苦しみの叫び声々→
**別紙(絵に貼付)
大田川と神田川への支流丁度その大田川の中央にかなり大きな砂地で出来た畠がありこの所にも被爆者が助けを求めていた
エンコウ川 多くの被爆者流れ
大田川 多くの被爆者は川の中で次々と死なれた
工兵隊の作業場
広島市の水道局ポンプ舎
サイズ(cm) 53.5×38
展示の説明文

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