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原爆の絵

識別コード SG-0064
絵の内容 負傷した女性
作者名(カナ) 濱田 義雄(ハマダ ヨシオ)
作者名(英語) Yoshio Hamada
当時の年齢 26歳
寄贈者名 藤堂 清
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/6(時刻)早朝
情景場所 西白島町
情景場所旧町名 西白島町
情景場所現町名 西白島町
爆心地からの距離 1,350m
ブロック別 基町・白島地区
作者による説明 **絵の中
原爆
中国軍管区第二總軍陸軍幼年学校内赤穂師団司令部
司令部付 浜田義雄
(第二總軍司令部将兵三百七の名)(赤穂師団司令部)
(広島陸軍赤穂部隊)(将兵二千三百四十六名)
原爆をおとされたとき屋外に居て被爆をした多くの人々は、まず着ていた衣服が燃え、鉄をも溶かすほどの熱は皮を焼き肉をも焼いた、家をも原爆の爆風で吹き飛ばし、眼玉をもぬき飛ばしたのがれ行く多くの被爆重傷者は道中で精根つきて死なれた。
昭和二十年八月六日早朝絵の場所 西白島町 爆心地より北方一キロの所
原爆の絵 浜田義雄  合掌
**別紙(中国新聞「広場」)
 苦しみの中で生きる被爆者
  療養者 浜田 義雄 60歳
 当時陸軍軍曹であった清水君と私は広島市基町の旧陸軍幼年学校内にあった赤穂師団司令部で被爆、重傷を負いながらも奇跡的に助かりました。
 被爆以来二人とも健康がおもわしくなく職場をやむなく放棄して入院、通院を繰り返すという状態でした。その後入院中の清水君から私のもとに数通の便りが届きました。いずれも震えの止らない手で書かれあり、その筆跡を見ただけで胸の詰まるような思いでした。内容は原爆への憎しみと国に対し被爆者認定を求める訴えで占められていました。そして清水君の願いもむなしくとうとう帰らぬ人となりました。
 国は被爆三十余年、なおその苦しみの中で生きている被爆者の実態に真剣に取り組んで欲しいのです。そして一日も早く被爆者援護法を制定されるよう願ってやみません。
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サイズ(cm) 67×94.5
展示の説明文

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