識別コード | SG-0054-37 |
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絵の内容 | 紙芝居「原爆の落ちたヒロシマ」 |
作者名(カナ) | 升川 貴志栄(マスカワ キシエ) |
作者名(英語) | MASUKAWA Kishie |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | 秋政 峯子 |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
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作者による説明 | **絵の中 原爆の落ちたヒロシマ 后篇 原作 升川 貴志栄 画65才 松井 芳太郎 1966.8 **裏 お父さんは、いろいろな役のため、太郎とも話合う暇もなく一生懸命日本の戦いにつくしたので、公職追放に合い「男がすたった」と立腹しましたが自分に関係のある二百五十名位の戦死者のお墓へは盆、正月の年二回は必ず自筆の名刺でおまいりして犬死はさせぬと冥福を祈っていました。放射能の多い市中を一ヶ月といふもの毎日毎日太郎を探して歩いたため、原爆に依る(ガン)で県病院へ五ヶ月の入院で昭和三十八年十月廿一日自分の誕生日に亡くなりました。原爆迄は二人共健康だったのに・・・ 正しい平和運動を必ず続けて行く様にと申されたのが遺言となりました。 疎開児童が全部田舎から引き上げた時責任者の片岡先生が「此の三枚の葉書を持って来られ御両親にはこれを見られて泣かれると思いましたが形見なので」と泣きくずれて悲しんで下さいました。それを其儘ここに書きました。 萬山不重君思不輕一髪重我命輕 これは大石蔵之助が浅野さんの仇を討つ時短刀にほりつけられた文字である。利明もこれにならいなさい二十一日二十二日にかけてお父さんお母さんが面会に行かれた。これについて感じたことを言はれた。それを知らせとく。 一、 利明君は気が弱くなっていて悪い者とも交るといふ事である。原田やなんか、きげんとらなくてもよい、今度面会の機会があったら行くとよくいっておけ此の手紙でも原田に見せておけ。 二、 利明君が気が弱いといふことは片岡先生からも注意があった。今度からは気を強く持て広く持ってりっぱな日本少國民となれ、今や日本と勝つか負けるかのさかへめである。利明君も強い強い日本人となりなさい。僕も天下の一中の生徒としてがんばります。利明君も努力して小■■村一の人となりなさい。利明君庄原といふ所ってあるかね、あそこには佐伯君があるから機会があればよいと思ふ。では体を大切に片岡先生方や疎開一同によろしく言ってくれ。さようなら 宗利より 七月二十四日 利明君へ 冬も終り寒さもすぎたがそちらはまだ寒いことだろうな 利明は寒がりでなく強い日本少國民だな こんな寒さに負けてはならない。今日も広島県下に「空襲」が発令された。僕達はちょうど■■の眞中だった くやしくてくやしくてたまらなかった。日本も多大なる飛行機が有ればこんなにあっぱくされないですむのだが日本國民は全力をあげて自分々々の職務にはげまなければならない 利明君もりっぱな小國民となって米英をやっつけよう先生の言はれることをよく守りなさい そして悪い者と友達にならないよう。では先生方によろしく伝えてくれ体を大切に さようなら 昭和二十五年五月十五日 山も野も青々と茂った草木をながめながら利明君も元気で学校にかよって居ることと思ひます僕はもう大田川で泳ぎました。利明が疎開してから早三箇月近くになります。面会がゆるされ二十一日か二十二日かにお母さんが行かれるかもわかりません。利明君も早く成人してりっぱな少國民となりませう では体を大切にしなさい。先生によろしく 七月十八日 宗利より 利明君へ |
サイズ(cm) | 40×65 |
展示の説明文 |