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トップページ原爆の絵紙芝居「原爆の落ちたヒロシマ」

原爆の絵

識別コード SG-0054-01
絵の内容 紙芝居「原爆の落ちたヒロシマ」
作者名(カナ) 升川 貴志栄(マスカワ キシエ)
作者名(英語) MASUKAWA Kishie
当時の年齢
寄贈者名 秋政 峯子
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時
情景場所
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
原爆の落ちた
ヒロシマ
**裏
 昭和二十年八月六日午前八時十五分広島に世界で初めての原子爆弾がアメリカのトルーマン命令で落された。毒ガスの匂いで四方八方に炸裂した熱線が顔といわず手足といわず全身の皮膚を一瞬にはがし逃げる間もない早さで二十万以上の人命をうばい、怪我人の傷から、ふき出す膿は一種の悪臭を放なちぼろぼろの着物で泣き叫び乍ら彷徨う様は実に絵にも書けず語るに言葉のない此の世の地獄そのままでした。市中は焼野ヶ原となり猛烈な爆風で建物被爆は市外二十キロ以上に及びました。今迄にない新兵器だといわれたのが原子爆弾と後でわかったのです。又広島には七十年草木も生へないとアメリカが言ったさうですがそれは被爆者は七十年間苦しむ謎めいた言葉だと私は思ったのです。科学者の研究では三世まで後遺症が続くと近頃聞きました。今日でも、この後遺症で次々亡くなり奇形児も生れる始末です。被爆者は「あの当時の事は言いたくない」と申されますが然し広島、長崎に落した幾百倍以上の核兵器を保有する国は段々ふへています。戦争でこれを使へば人類は勿論有らゆる生物は全部死んで仕舞って此の地球には何もないのです。この点を考へる時世界の平和の為には体験を多くの人に知ってもらふ事の責任があると思います。当時私は中心から一.五キロで被爆しました。頭を強く打ち人事不省の儘遠く迄飛ばされ、気のついた時(モンペ)が燃えていました。大傷は顔と背に袈裟がけに大腿部の上まで皮膚の表面だけでしたが、それでも腰の左側から濃が一年以上出ました。口中はじゃりじゃりするほど砂が這入り上歯六本折れ又右足骨折の上、背骨に異状といふ状態で、この傷は今も痛みます。少し無理すると腰の左側へ初めはみみずの様に腫れて熱を持ち約二センチ位化膿しては四五日でなをるのを繰り返します。一番気になるのは声が太く喉が痛むことです。この様に原爆は後遺症として何時迄も残るのが特異です。此度の二次戦では東京はじめ方々が戦禍を受け肉親の死を悲しむ人も多いと思います。■中の一母親として長男が夏休み返上で激しい労働も勝つためと頑張り遂には僅か十三才の若桜でしかも一滴の水さへ飲まず焼き殺されたと思ふと心も沈づみ只々ありし日の思出の悲しさを何する事も出来ません。あの時橋の下に繋いでいたあの(イカダ)は○中の一年が非常の時を考へて一週間前に作ったとか、あの(イカダ)が無かったら私は流れ死んだでせう。いろいろ考へると不思議にたへない事が多く有ります。
戦時中の子供と、今頃の子供とでは大地の差があります。食べたい物は何んでも豊富に有ります。若いお母さん達の中には日本古来の「お父さん」「お母さん」をきっぱり捨て「パパ」「ママ」と呼ばせる人が多くなりました。日本が敗戦したからでせうか。外国語がよいと思ふのでせうか。それとも人真似なのでせうか私は若し日本も他国なみに核兵器位持つべきといふお母さんが出るのでないかと甚だ気になります。
広島、長崎に原爆が落ちた為に八月十五日終戦になった様な気もします。日本は例へ国は小さくとも世界の中の日本といふ誇りを捨てず戦争のない又核兵器は絶対に持たぬといふ自覚精神で世界の平和を願いませう。正しい平和を作るために力を合せ努力しませう。
**別紙
この紙芝居は、第二次大戦で世界中はじめて、広島と長崎に原子爆弾がアメリカ飛行機に依って落とされ、広島では二十万以上、長崎では十万以上の人が即死、そればかりか、放射能の害が後遺症として残り、人生の楽しさをすっかりうばって仕舞いました。
だいじのだいじの太郎君も、あの朝元気よく中学校の動員作業に出たきり帰りません
両親の悲しみは消えませんので、お母さんは太郎君が生れた時からの生立ちの記から作りました。
升川 宗利
サイズ(cm) 40×65
展示の説明文

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