トップページ原爆の絵ひどいヤケドで手の皮がワカメの様にぶらさがっていた友人の姿
識別コード | SG-0011 |
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絵の内容 | ひどいヤケドで手の皮がワカメの様にぶらさがっていた友人の姿 |
作者名(カナ) | 大木 シズヱ(オオキ シズエ) |
作者名(英語) | Shizue Oki |
当時の年齢 | 34歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | 広島市己斐町 |
情景場所旧町名 | 己斐町 |
情景場所現町名 | 己斐上 |
爆心地からの距離 | 3,700m |
ブロック別 | 己斐・草津地区 |
作者による説明 | **別紙 大木シズヱ:朝の八時頃思ひがけないひどい音がして外へとび出た外には多くの人がやけどをして避難所はどこだどこだとうあうさおうして此の世の地獄の姿その内友が両手の皮がむけてぶら下り顔は血みどろでたれかわからなかった友人は本当に大変だった1人の老人は背中に大切につけていた私はお金と思って居た。水がほしいと言ふので水をさがして見たがどこも油水でダメ水がないよと言ふと老人は此の金はやくにたたないと言って背中から取りはづしてなげつけたがたれも取って行く人はなかったその内夜が来る家には帰られないモーフをかついで人が行かれる所へついて行った所は親切に皆をその夜避難さして下さったその夜は見わたすかぎり広島が火の海で天をこがすかの様で世も終りの様に思った。 (長女)大木和子:私は縁故疎開で山口市湯田の親類の家にあずけられたので被爆は免れました。同級生(大手町小学校)は、集団疎開でこれ又助かりました。今だに同期生は結束が固く、毎年集まりますが大手町小学校は再建される事なく今、記念碑のみ後地に残っています。父は40すぎて兵役に取られ、長崎の五島列島に居て助かりました。80才で死亡しました。 「思ひ出せば原爆投下の絵を描きました時はまだ64才の若さであのおそろしい原爆がまるで此の世の地獄と思へていつまでも思ひ出されて頭よりはなれなかったのですがあれからもう何年も過ぎて今年又思ひがけなく原爆の絵を描く様にとの事大変にまよひました。なぜならもう私も90才の年になりあまり上手に絵も書けませんのででもあの時こわかった事友人がひどくヤケドで手の皮が両手ともやけてワカメの様にぶらさがっていた姿を目の前にした事は何年たっても忘れる事は出来ませんのでその姿を思ひ出して又書きました広島は火の海で夜は見わたすかぎり火の海でこれで広島もなくなるナァと思った水がほしくとも油水で水が出づ黒い雨が降る本当に何と言ってよいか二度と此の様な事が無い事を祈る」 |
サイズ(cm) | 26.5×37.5 |
展示の説明文 | 広島は火の海で、夜は見わたすかぎり火の海で、これで広島もなくなるナァと思った。水がほしくとも油水で水が出ず、黒い雨が降る。 |