識別コード | SG-0007 |
---|---|
絵の内容 | ※名称なし |
作者名(カナ) | 小早川 浅蔵(コバヤカワ) |
作者名(英語) | |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/10頃 |
情景場所 | 戸坂小学校 |
情景場所旧町名 | 安芸郡戸坂村 |
情景場所現町名 | 戸坂出江二丁目 |
爆心地からの距離 | 5,100m |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 私は船舶工兵でフィリツピン、ネグロス島に勤務して居りましたが昭和十九年四月作戦上輸送船で日本に帰り広島の似の島検疫所に上陸しました。病氣のため広島第一陸軍病院に入院しました。二十年七月沼津市の空襲のため私の家も全焼したため電報が来ました。八月四日外泊にて静岡県沼津市に帰りました。六日に広島が原爆で焼失した事は知らず八日に広島に帰りました。駅に着きホームより一望すると見渡す限り焼野原になって居りおどろきました。街に出ると一面煙が立ちのぼって居り元居た第一陸軍病院にやっとたどり着きましたところ生存者は居らず九州方面から来た救の兵士が人間の掘出しをして焼いて居り私も二日手伝って居りましたが復帰の手続を取るため戸坂村へ来ました。戸坂小学校には被害者が校庭に沢山むしろの上に並んで居りました。私はその人達のため懸命に看病にあたりました。此の絵に書いてある御婦人は黒々焼けている赤ちゃんに自分の赤黒くなって居る「ちち」を飲ませて居り兵隊様便所へ行きたいと言ふので便所へ行くのは大変ですから其の場へ用を足せば私が外の患者を見廻って来てから始末をして上げるからと言って一廻りして帰って来て見るとその親子の姿が見えないので便所に見に行くと便所の中で親子共亡くなって居りました。その便所は下に書いてあります。私は戦争とは残酷なものだと毎日懸命に看病しました。患者様達が傷の中にハエが入り込んでいたいいたいと言ってさげぶので私は土手から竹笹を何十本も取って来てこれでハエを追い払ふように言って一人一人持たせました。 戸坂小学校便所 小早川浅蔵 書 |
サイズ(cm) | 55×79 |
展示の説明文 |