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トップページ原爆の絵江波の射撃場で死体が焼かれた

原爆の絵

識別コード SG-0003
絵の内容 江波の射撃場で死体が焼かれた
作者名(カナ) 桝本 伸輝(マスモト ノブテル)
作者名(英語) Nobuteru Masumoto
当時の年齢 9歳
寄贈者名
種別 新市民が描いた原爆の絵(その他)
情景日時 1945/8/8~8/9
情景場所 江波射撃場
情景場所旧町名 舟入川口町、江波町
情景場所現町名 舟入南、江波東
爆心地からの距離 2,930m
ブロック別 吉島・舟入・観音地区
作者による説明 **絵の中
皿山
ピストルの的
兵舎

鉄砲の的
トーチカ
民家
台形(7~8m)高さ
トタン
戸板
水たまり
土手、沼
ドブ川
射的の台座
トビグチ
材木
ドラムカン

兄と祖母火葬場所
ポプラ
一斗缶
シャク
トビグチ
ドラムカン(油)
江波射的場
○トラック、馬車が着くと、顏は燒け、はれあがって見分けがつかない人達で、ほとんど裸であった。トビグチで身体にひっかけて引きずり下していた。
○ほとんどの人が兵隊さんだと言っていた。作業の人も兵隊さんだった。
○太い柱を二列に置き、その上に死体をのせ、材木を山の様に、一斗缶やシャクで油をかけ火をつけて行った。
○ポトンポトンと頭が地面に落ちてゆくのを子供心で無心に見つめていたものです。(8月8日~10日の光景だった)
○燒けていない人が多くいたが、その上に同じ様にして火をつけて行った。
○今にして思えば、この人達の身元は、どうなっていたのだろうか遺骨はもちろんない。安らかに・・・
○トタンや戸板の上、野原に死んだ人があちこちいた。その後、ミイラやそのままの形で骨だけになっていた。画面上
○8月27日兄(修道中学2年)と祖母をポプラの下で一諸に火葬した。木材不足で燒けてなく、再度火葬した。死にたくないと言って死んでいった兄にごめんねと言った。
  桝本 伸輝(当時9才)
**裏
原爆の恐しさが21世紀の人々にもひきつがれ
少しでも教訓になればと願い描く。1999.8.
**別紙
 江波国民学校3年(9歳)の時に被爆した。一時山口県に疎開したが、被爆直前に祖母と広島に帰っていた。
 警報が解除され、江波港あたりで泳いでいたときに、原爆が炸裂した。
 光った瞬間、海にもぐりしばらく石にしがみついていた。水から顔を出すと、あたりの風景ががらっと変わっていた。
 水からあがると、体の左半分が火傷して水ぶくれていた。
 近くの自宅にもどったのが9時前。その時にはすでに裏の垣根に火が着いていた。
 国民学校にいき、火傷の治療をしてもらった。油を塗ってもらった。その時にはまだ、数人しかいなかった。
 10時半すぎ、学校を出るころ負傷者がゾロゾロをやってきた。みな火傷をしていた。
 8月10日ごろ、歯茎から出血。病院で点滴を受けた。
 兄と祖母もそれぞれ、雑魚場町と土橋で被爆。自宅にもどってきたが、残念ながら死亡した。二人も射撃場で焼いた(現在の広電車庫近くのガソリンスタンドあたり)。
 江波の射撃場で死体が焼かれたことは、今も鮮明に覚えている。
 絵は8日から9日ごろのこと。遺体となった多くの兵士が、トラックや馬車で運ばれ、山となって積まれ、油をかけて焼かれた。死体はとび口でひっかけて運ばれていた。
 焼かれた所は、射撃の際の台座部分(少し高い)だった。
 射撃場は広く、所どころにト板にのせられた死体もたくさんあった。おそらく、だれかが運んで置いたものだろう。

 戦後、射撃場が払い下げられ中学校や市営団地が出来るときは、遺骨が掘り出され、供養された。

 この絵を描いたのは、何とか後世の人にもこういうことが実際に起こったのだということを知ってほしかった。
サイズ(cm) 90×93
展示の説明文

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