識別コード | SG-0001 |
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絵の内容 | 家の下敷になって助けを求める母子 |
作者名(カナ) | |
作者名(英語) | |
当時の年齢 | 3歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 新市民が描いた原爆の絵(その他) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)8:15頃 |
情景場所 | 広島市中広町中国配電三篠変電所近く |
情景場所旧町名 | 中広町 |
情景場所現町名 | 小河内二丁目 |
爆心地からの距離 | 1,650m |
ブロック別 | 十日市・中広地区 |
作者による説明 | **別紙 広島へ原爆が投下されて今年で54年目の8月6日を迎えました。 義母と三人兄弟の生命はかろうじて遺されました。救助隊のみなさんのお陰だと感謝しています。あの日の朝をふりかえってみました。母30歳くらい、私たち兄弟は上の兄を頭に6才、中の姉が5才、私は4才でした。三人は朝日のサンサンと当たる硝子張りの縁側でわいわいと走りまわって大はしゃぎ、家中は三人兄弟の運動場となっていました。54年という長い歳月が経ったいまも脳裏にはっきりと覚えているのは家の中ではしゃぎまわってあそんでいたときの元気なありありとしたわんぱく盛りの姿です。 その時でした。私は閃光、爆音、爆風のあらしも全く覚えがありません。 気がついた時は真っ暗なつぶれた家の下敷きになりうめきわめいていました。いったい何が起こったのか全くわかりません。 天井が落ち、梁が落ち、その上屋根も落ちて落下物総重量は計り知れない重量であったにちがいない。 神様、仏様は私たち母子4人の生命をどのように生死の運命を分けて下さったのでしょうか。母子4人とも丸太梁のわずかなすきまを作って下さり、私たち4人は運良くこのわずかなすきまの中でかろうじて生命はつながっていました。 うめきわめきもどのくらいの時間が経ったか。壁土の小舞いのにおい、ほこりのにおい、木の焼け焦げたにおいがあたり一面に漂っていた。 つぶれた家の中は真暗でシーンとしていました。丁度そのころ外の方で大声で叫んでいる人の声がかすかにきこえてきました。母はもがきながら力のある限りの声で「あんたら助けにきてくれたよ もうちょっとがんばっとれよ はあせわあないけえ」 こうして私たち4人はあちこち怪我こそあれ、生命は助けて下さいました。 救助隊のみなさんのお陰です。54年経った今の私たちが元気にいれることに今日一日、きょう一日感謝の気持をこめて生かしていただいています。 神様、仏様ほんとうにありがとうございました。 おおくの恩人のお力があってこうして元気で長く生かして下さることができました。 ほんとうにありがとうございました。 けれども決して手ばなしでは喜んでいられません。 21万人というぼう大なる犠牲者に対しどうしていいかわかりません。心奥底から御冥福をお祈りいたします。 平成11年8月6日 記す。 |
サイズ(cm) | 79×109 |
展示の説明文 |