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トップページ原爆の絵炎の中の黒焦げの三人の死体

原爆の絵

識別コード NG467
絵の内容 炎の中の黒焦げの三人の死体
作者名(カナ) 末光 五三(スエミツ イツゾウ)
作者名(英語) Itsuzo Suemitsu
当時の年齢 13歳
寄贈者名 末光 五三
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6
情景場所 鷹野橋から比治山への避難の途中
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離
ブロック別
作者による説明 **絵の中
呉竹
**別紙
沈黙で黒の世界  燃える炎まで 鷹の橋から比治山への避難途中
黒焦げの三遺体(水を求めて防火用水でそのまま息絶え)多くの遺体を見ても、なんの感情もわかない悲しい現状
被爆日記 八月六日 午前八時十五分 呉竹著

八月六日午前八時十五分  呉竹(匿名願い)
広島の空は「真っ青な日本晴れ」だった。
昭和二十年(一九四五)八月六日午前八時十五分、第二次世界大戦中のような悲惨な出来事は二度とごめんだ。
戦争中、職場の男性は兵士にかりだされ、人手不足、その穴埋めに、中学生が動員され勉強どころではなく、各工場に奉仕活動で出向していた。私は当時中学二年生(十三才)。朝礼終了、みんな「わいわいがやがや」と賑やかに、各職場に向かう途中での出来事。
ところは広島電鉄の電車車庫内レールそば幅一米程の通路、横には土俵を積んだ防空壕の出入口、丁度その時、B29来襲の爆音、皆一様に空を見上げ、機影を探す、見つけた者は上空の一点を指さし「そら、あそこに…」と皆に告げるも、私には見えない、懸命に機影を探すが、……その瞬間……『ピカッ』……写真のフラッシュ、何万何十万個と集まった強烈な光の中シーン――と静寂。
何秒何分何十分か、経過した時間は不明。
ふと気がついた時には壊れた家の下敷き、倒れた横に土俵を積んだ防空壕の出入口、這って防空壕に飛び込む、何が何やら分からないまま、他の出入口より外に出て周囲を見回すと、先程とはまったく違った世界。タイムスリップして別世界。少年時に見た、お寺で開帳されている、地獄画そのままである。先程の生活の音はなく無声映画そのまま、顔は真っ黒、火傷と怪我して血の固まりで見る影もなし。焼けて服はボロボロの、両手は一様に腰前でだらりとたらし、丁度おばけの集団絵画そのまま、夢遊状態の歩き方で一方向にしずしずと無言で歩いている。
そちらに行けば広島市で一番大きな日赤病院があると言う無意識の行列である。周囲にあった建物は見渡すかぎり、ペシャンコに潰れ、電柱は折れ電線は道に鉄条網の状態で、周囲は炎と煙でボンヤリとしか見えない。私も無意識に行列に加わる。
日赤病院は鉄筋の建物、窓は破れ窓枠はゆがみ、集まった人は、一様に無言(私の耳が聞こえないのか?)で、病院前の広場は負傷者で病院前の広場も一杯、諦めて、自宅に向かう。然し行けば行くほど町の状態は悪化。瓦礫の山で、その瓦礫の山を踏み越え、自宅は市内の中心部(旧中町)で、そちらに足を向ける。街の状況はますます悪く中心部より逃げて来る人ばかり、その人達に聞いてみる。「中心部はもっとひどく行かないほうがいい」と言うので諦めるしかない。取り敢えず、父親の決めた牛田町(市中心部北西)の疎開先に足を向ける。
炎と煙、瓦礫の山を踏み越え進む、自宅に向かわず、(※絵画のような場面に出会う.)市東部にある比治山に向かう。比治山は青々とした山がところどころハゲ山になって、無残な山に変身、その上、負傷者で、一杯の状態。皆一様にうなり声を上げて「水」「水」「兵隊さん助けて」の声のみ、山頂から市内を眺めると、市内いたるところ火災で上空は真っ黒。反対斜面をくだり宇品線を歩き、結果的には大回りして夕刻、疎開先に着くも、家は傾きガタガタ、父親も一足早く疎開先に着いていて、私と対面、始めは私と判らず声で判明、何故ならば、私の顔・手足は火傷と怪我、しかも服は焼けてボロボロ、足は裸足、判らないのはあたりまえだ。疎開先とはいっても家は傾き、窓ガラスは割れ、その破片は家具・柱に突き刺さり、危険で入れず、山に行き野宿する。
それから二ヵ月余り、記憶はなく、気がつけば、母親は帰っては来てない。後で聞くと捜し廻っても生死も行方不明。この日をさかいに私の「故郷広島」も「幼なじみ」も、何もかもなくなってしまった。
サイズ(cm) 37.8×53.7
展示の説明文 炎の中の黒焦げの三人の死体
絵/呉竹氏
1945(昭和20)年8月6日

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