識別コード | NG464-03 |
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絵の内容 | 大八車で負傷者を運ぶ。 |
作者名(カナ) | 村尾 禮子(ムラオ レイコ) |
作者名(英語) | Reiko Murao |
当時の年齢 | 15歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | |
情景場所 | |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | |
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作者による説明 | **別紙 8月6日午前8時10分頃、会社について間もなくだった。B29の爆音が聞こえると云って近くに居た3人が何げなく空を見上げたとたん8時15分ぴかっと光った瞬間だった。びっくりした友達が工場の中に走り込み中に入って物の下に入り込んだ。その時すでにやけどをしていた。 顔やのどを手当てをしてもらったけど苦しいばかりだった。 だんだん夕方近くなると水がのみたいばかりでつらくなるばかりだった。重傷者ばかりが焼け残った建物の中に集められた。水を沢山のんだら死ぬかも知れないと云ってあまりのまない様に云われたが死んでもいいと思って沢山のんでしまった。 だんだん夜明け近くなり、お母さん、お母さんと言う者ばかりだった。少し静かになったなと思ったら死んでしまっていた。 死ぬものかと思って頑張った。次の朝、自分はやっと生きていた。昼近くなって父親が私をさがしに来たが比治山の下で車を降ろされ私の居る場所に行く様に云われ吉島までさがしに来た。吉島の会社は倉敷航空機製作所と言った。 私もやけどがだんだんひどくなり目もつぶれてしまっていた。父も私の顔をみてびっくりした様子だった。 自分で私をおんぶして広島駅まで歩く事になった。 南大橋を通ったけどあとは全くおぼえていない。 母親が自分が動けなくなりこの子を助けて下さい、と云って必死だったけど自分がやっとでどうする事も出来なかった。 馬も立ったまま死んでいるのを二回見た。 広島駅ですずなりの大ぜいの人で、やっとの思いで阿賀駅にたどりつき近くの病院につれてゆかれたけどどうする事も出来ず家につれて帰られた。その時ちょうど良い事に東京から帰って来たと云う先生に会う事が出来た。私の顔を見るなり、必ずきれいにしてあげると云われて皆を安心させてもらった。毎日治療をしていただいて本当に嬉しかった。顔は少し赤くなってしまったけど私は運が良かったと思ってうれしかった。父はそれから4年目に白血病で亡くなった。56才で短い命だった。 私は15才で被爆して72才の今でも生きている。本当にしあわせ者だと思っている。 お父さんどうも有難う。 |
サイズ(cm) | 27×38 |
展示の説明文 |