トップページ原爆の絵こわれた兵舎の屋根を修理し負傷者を収容する。子どもたちは母親を呼びながら死んでいった。
識別コード | NG457-04 |
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絵の内容 | こわれた兵舎の屋根を修理し負傷者を収容する。子どもたちは母親を呼びながら死んでいった。 |
作者名(カナ) | 斉藤 敬一(サイトウ ケイイチ) |
作者名(英語) | Keiichi Saito |
当時の年齢 | 26歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | |
情景場所 | 野戦船舶本廠警備中隊、縫製工場 |
情景場所旧町名 | 宇品町 |
情景場所現町名 | 宇品海岸三丁目 |
爆心地からの距離 | 4,790m |
ブロック別 | 皆実・宇品地区 |
作者による説明 | **絵の中 D 原子爆弾投下されて、其の直後より宇品の船舶本廠警備中隊(中隊長)陸軍大尉太田清之助殿)は被爆者の収容に出動。トラックに乗せて中隊兵舎へ連れ帰り、日夜看護に当った訳です。 西の兵舎の屋根瓦は全部吹き飛び、窓のガラスも全部砕けて一枚も無く、でも暑い夏の為、是は良いとして屋根は塞がねばならないので、ビニールシートで屋根を葺きて、どうにか起居出来る様にした訳です。被爆者は男性も女性も強力な爆風と熱閃光に依り夏の薄い衣服は全部千切れて殆ど全裸の状態である為、早速各人に配布する為、女子専門学校の縫製工場の生徒に褌を縫わせて、是と毛布を一枚支給したのでした。差当り此の状態で看護に当った訳で、女性の被爆者の看護は女子専門学校の生徒に依頼したのでした。収容した学校生徒は、毎日上半身裸で勤労奉仕だったので、熱閃光の火傷は特に甚だしく、子供達は皆、「お母さんお母さん」と母の愛を求めて死んでいったのでした。只一人「お父さん」と言って居た子供が居りましたが、此の子は父親一人に育てられたとの事でした。 人間の母性愛の強さが身にしみました。治療と言っても、大きい盥に油を溶いて、是を塗って其の上に新聞紙等で覆って、静かに寝かして置く程度でした。 縫製工場 船舶本廠警備中隊 **裏 斉藤敬一 **別紙 私は原爆投下の時は宇品にて暁六一四○部隊(船舶隊)の船舶本廠の警備中隊の一員で、宇品より二、○○○m沖の金輪島(本廠の本部、並びに船舶の修理・技装)の衛兵司令として勤務中、勤務を交替下番して、翌日より毎日被爆者の収容、日夜看護に当りました。 氏名 斉藤敬一 |
サイズ(cm) | 27×38.2 |
展示の説明文 |