トップページ原爆の絵暁6140部隊のトラックで運ばれる負傷者たち
識別コード | NG457-02 |
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絵の内容 | 暁6140部隊のトラックで運ばれる負傷者たち |
作者名(カナ) | 斉藤 敬一(サイトウ ケイイチ) |
作者名(英語) | Keiichi Saito |
当時の年齢 | 26歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | |
情景場所 | 野戦船舶本廠 |
情景場所旧町名 | 宇品町 |
情景場所現町名 | 宇品海岸三丁目 |
爆心地からの距離 | 4,790m |
ブロック別 | 皆実・宇品地区 |
作者による説明 | **絵の中 B 船舶本廠の警備隊は原爆投下直後より毎日被爆者の収容看護にあたった訳です。 軍都広島の軍隊は師団指令部を初め殆ど全滅状態で無事な部隊は、宇品の船舶指令部を初め各船舶隊と、比治山の兵器廠が残った位で其の為船舶隊は(警備中隊)毎日一部の兵は被爆者の収容に、残りの隊員は交替で日夜看護に当り、三〇分置きに巡回する毎に、何名かの死者が出て来る。(身体を半分以上火傷して居る被爆者は殆んど死亡された) 死亡された人は直ちに船舶で、似の島へ送られて、各人毎に名札が立てられて火葬に附されたのです。 被爆者を収容した時 言葉が発せられ通じる人は、住所・氏名を書き取って、台帳と同じ番号札が各人に付けられたのですが、すでに物の言われぬまま死亡された場合は、致し方無く一緒に火葬されて、各々骨を拾われて一個の骨壺に納められた様でした。此の骨壺には一千人分位の御骨が納められて在り、中隊の東門衛兵所に安置されて各収容所を探しても、どうしてもわからぬと言われる遺族の方に此の中より一片の御骨が渡されたのでした。 **裏 斉藤敬一 **別紙 私は原爆投下の時は宇品にて暁六一四○部隊(船舶隊)の船舶本廠の警備中隊の一員で、宇品より二、○○○m沖の金輪島(本廠の本部、並びに船舶の修理・技装)の衛兵司令として勤務中、勤務を交替下番して、翌日より毎日被爆者の収容、日夜看護に当りました。 氏名 斉藤敬一 |
サイズ(cm) | 27×38.2 |
展示の説明文 |