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トップページ原爆の絵宇品から似島検疫所に船で負傷者を運ぶ。皆全裸でやけどし水を欲しがっていた。3日間作業は続いた。

原爆の絵

識別コード NG432
絵の内容 宇品から似島検疫所に船で負傷者を運ぶ。皆全裸でやけどし水を欲しがっていた。3日間作業は続いた。
作者名(カナ) 福田 安次(フクダ ヤスジ)
作者名(英語) Yasuji Fukuda
当時の年齢 21歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)9:00過ぎ
情景場所 広島港
情景場所旧町名 宇品町
情景場所現町名 宇品海岸
爆心地からの距離 4,700m
ブロック別 皆実・宇品地区
作者による説明 **絵の中
〔一〕
 昭和二十年八月六日月曜日晴天雲一つなし、屋外にて点呼(てんこ)(朝礼)の後ラジオ体操中に北の方向より青白い閃(せん)光を浴びる(爆心地より四・五キロメートルの地点)顔面熱し「退避」「たいひ」と口々に叫びながら近くの防空壕(ごう)に避難し終ると同時にすざましい爆発音がする。木造の事務所の窓ガラスは全部破損した。
 八時四十分ごろ命令が伝達された。「特殊爆弾により市の中心部にある部隊は全滅した。残るは宇品の暁部隊のみである。動ける自動車・船舶を総動員して救護に当る。全員それぞれの部署につくべし」と、
 私たちは、木造の運般船(五十トンくらい)を凱旋(がいせん)桟橋(現六管保安庁桟橋)に着け、トラックで運ばれて来た人々を似の島の陸軍検疫所へ送るために待期する。
 その時ふと北北西の空に見たこともない形の白い雲を発見する。
あれは何だろう?
〔二〕
雲だろうか?真青な空に真白い変な形の雲がムクムクムクムクと上昇しながら上部は泉の水が湧き出るように横へよこへとムクムク広がっていく。
 見た一瞬美しいと思った。見たこともない変な雲だとも思った。「市中の部隊は全滅した」とは聞いたものの実感のない私たちは、不吉な思いでムクムク変化して行く雲に見とれていた。
〔三〕
九時すぎ桟橋の突堤を第一便のトラックがバックで次第に近づいて来た。私たちの場所から約三十メートルくらい先で停車した。兵隊の手をかりて降り、渡板を下り、浮き桟橋の上を近づいて来た。みな一様に手の平を上にして両手を胸の高さに前へ差し出していた。先頭に来たのは大柄な女の人で幼児を一人抱き、「兵隊さん水ちょうだい」という。その顔と姿に驚いた。まぶたは腫れて、これで眼が見えるのだろうか?顔も口びるもふくれてまるで「お化け」の様相でその上に全裸である。幾ら夏で薄着をしているとはいえ、お行儀が悪いなァと一瞬思ったが、次々と「兵隊さん水ちょうだい」「水ちょうだい」と近づく人々はみな全裸であった。〔四〕
この時やっと「特殊爆弾」「全滅」が実感された。「似の島へ行けば水も薬もあるからそれまでがまんしなさい」と一人ひとりを励ます。爆風で火傷の皮膚が取れてボロ布(ぎれ)のようにぶら下り、赤身が砂ぼこりで赤黒くジクジクして持つ所もさわる所もない。意を決して手を持ち、物を支えて船に乗せる。三、四十人乗せると、似の島へ(向って出発約二十分で着く。検疫所桟へ降しては引き返し、また積んでは運ぶという作業を三日ほど繰返す。似の島へは約一万人余りが運ばれたが、そのほとんどが亡くなられたと聞く。特に中学生が多かったことが強く印象に残っている。
 大人も子供も「兵隊さん水ちょうだい」「兵隊さん水ちょうだい」と言った美しい言葉が今も耳の底に聴こえる。午後から氷をくだいたそのかけらを一つずつ口に入れて上げた。それがせめてもの心の救いであった。
 当日小生満二十一歳の誕生日。以来悲しい誕生日をずっと迎えることになった。
(当日の昼間の干潮は十三時ごろと記憶している)
02.7.31 福田安次(当時21歳)
**裏
福田安次(ふくだやすじ)
(77歳)
サイズ(cm) 31.6×40.5
展示の説明文

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