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トップページ原爆の絵防火用水槽の死体。新しい服装でたぶん警防団のひとだと思う。体がふくらんで皆下を向いて死んでいた。

原爆の絵

識別コード NG426-02
絵の内容 防火用水槽の死体。新しい服装でたぶん警防団のひとだと思う。体がふくらんで皆下を向いて死んでいた。
作者名(カナ) 宮本 鎤(ミヤモト アキラ)
作者名(英語) Akira Miyamoto
当時の年齢 28歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/9
情景場所 白神社境内
情景場所旧町名 小町
情景場所現町名 中町
爆心地からの距離 490m
ブロック別 紙屋町・本通地区
作者による説明 **絵の中
(2)
護防団の方々でせう
宮本さんあの死んだ人のゲートルと時計を失けいしましょうと言ふで死んだ人の物が取られるかと言ったのです
自分等の服そはやぶれた戦とう帽、布ぐつ、やぶれたヒモかばん、時計なし、多分護防団の方々でせう新しい服装でした。体がふくらんで死んで居ました。
不思議と皆んな下を向いて死んで居ました
白神社境内です。
県女は目の前です。
**別紙
当時、私は呉市に住み会社は新町一丁目に呉造船工業と言ふ中型造船所で上陸用舟でい鉄・木等を造って居ました。前のばん(八月八日)に呼ばれ当時専務として務めて居られました佐々木専務が朝広島に行ってくれないか(佐々木専務の奥さんが広島の千田町林県会議長の娘さんで長女の方です。さがしに行くのは長女の次女の方で同時県女に行って居られました)早速若い人をつれて朝の吉浦駅で広島迄行かれますかと聞き駅の人もたしかなことは言へないが行ける所迄行きなさと言われ、向洋駅で長い事待たされました(二時間ぐらい)。どないにして広島駅に下りたか未だに判りません。下りて広島駅より見ました処今の福屋しか見えませんでした。
下りて手当り次第県女の生徒さんの事を聞きましたが誰も知って居る人はいません。今に思えば誰が牛田方面に行ったと言ったか判りません。
絵に書いた通り一、二、三、四、五と行き家に帰ったのは夜9時頃でした。未だ判らないとはつれて行った若い人ですが私が思って居た人に電話を入れた所お父さんが出られ兵隊に行って未だ帰って居ないと言うことで今日に至るも不明です。結局県女に行って居た本人は相生橋のたもとでたをれて居た所を親戚の人がつれて帰り手当をしましたが亡くなられたそうです。奥様は女医で瀬野川の病院で週一回出勤。奥様に証明して頂きました。
宮本 鎤       S20.8.9日入市
サイズ(cm) 27.1×38
展示の説明文

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