トップページ原爆の絵校舎の中は負傷者であふれ治療待ちの行列が延々と続いた。半死半生の人々が横たわり足の踏み場もなかった。
識別コード | NG422 |
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絵の内容 | 校舎の中は負傷者であふれ治療待ちの行列が延々と続いた。半死半生の人々が横たわり足の踏み場もなかった。 |
作者名(カナ) | 杉﨑 友昭(スギサキ トモアキ) |
作者名(英語) | SUGISAKI Tomoaki |
当時の年齢 | 5歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6(時刻)9:30~10:00頃 |
情景場所 | 己斐国民学校 |
情景場所旧町名 | 己斐町 |
情景場所現町名 | 己斐上二丁目 |
爆心地からの距離 | 3,050m |
ブロック別 | 己斐・草津地区 |
作者による説明 | **絵の中 “ 己斐小学校の救護所は治療待ちの行列と半死半生の怪我人の山だった“ 5才の記憶である。 投下後の一時間 校舎の中には延々と治療待ちの行列が続き机の上にも下にもさらには足の踏み場もないほどに負傷者が横たわっていた・・・その多くは少年だったようだ。 傷口が大きく開いたまゝの腕の傷も治癒した。 しかし地獄絵を見た心の傷と生命の不安は治癒することはない・・・。 ○小 ○小 H14.7.31 ともあき **別紙 “救護所は、治療待ちの行列と半死半生の怪我人の山だった” 五歳の記憶である。(記憶の若年サイドの限界年齢か…) 半壊の家屋から、祖母と二人、血だらけで抜け出して、町内の指定救護所に向かうも閉鎖状態。その頃には、早くも市中方面から黒焦げ姿の人々がぞろぞろと逃れてき始めていた。 親戚に一旦避難するも、血だらけ状態の治療のために、己斐小学校の救護所に向かったのは、投下の後一時間を経過していただろうか…。 校舎の中の救護所は、既に治療を受けようとする人々であふれ、延々と治療待ちの行列が続き、そこかしこには、半死半生の多くの人々が横たわっていた。 大きな机(理科教室だったか)の間を行列は続いたが、その机の上にも下にもさらには足の踏み場も無いほどに負傷者が横たわっている…その多くは少年だったようだ。 机の下で寒い寒いと震える子に、哀れと思った祖母が机の上の子に掛けられた毛布を少しずらしてやると、すぐに机の上の子が引っ張り返すような場面もあった…。 治療待ちの行列も遅々として進まず…血だらけとは言え我々の怪我の程度は怪我の内に入らずと治療を受けることを諦めざるを得なかった。 傷口が大きく開いたままの腕の傷も治癒した。 しかし、それよりも地獄絵を見た心の傷と生命への不安は治癒することは無い。 この絵が描けるぎりぎりの若年体験者として、そして自らの記憶の整理のためにと重い筆を取った。 応募メモ 「絵」 昭和20年8月6日 午前9時30分~10時頃? 市内己斐町 己斐小学校の救護所の様子 「救護所は、治療待ちの行列と半死半生の怪我人の山だった」 「応募人」 氏名 杉崎友昭 被爆地 市内己斐西本町 屋内(爆心地より約2.5km) |
サイズ(cm) | 20.9×29.6 |
展示の説明文 |