トップページ原爆の絵バラバラと大粒の雨が降りだした。雨は真っ黒な砂まじりで上着や包帯を黒く汚した。
識別コード | NG416 |
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絵の内容 | バラバラと大粒の雨が降りだした。雨は真っ黒な砂まじりで上着や包帯を黒く汚した。 |
作者名(カナ) | 中村 雄子(ナカムラ ユウコ) |
作者名(英語) | Yuko Nakamura |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | 己斐 |
情景場所旧町名 | 己斐町 |
情景場所現町名 | 己斐上 |
爆心地からの距離 | 3,700m |
ブロック別 | 己斐・草津地区 |
作者による説明 | **絵の中 黒い雨 全壊した工場から裏山の防空壕へ しばらくして黒い雨がボタボタと落ちてきた **別紙 あの日、私は十三才。県立広島第一高女の二年生だった。勉強らしい勉強が出来たのは一年生の時だけだった。私たち二年生にも学徒動員令がおりて、己斐町あった航空機会社に配属された。工場はほとんどが動員学徒でしめられ、大人の工員の姿は余り見なかったような気がする。 あの日八月六日は、朝からいつものように、真夏の太陽がジリジリと照りつける暑い日だった。工場の外に出た友だちが「飛行機がとんどる!!B29じゃないかね」「アッ、白い落下傘のようなものを落した」と言った瞬間、目のくらむような青黄色の閃光が稲妻のように走った。ハッと顔をその方に向けたとたん、「ドーン」とものすごい衝撃を受け、ガラスまじり、土砂まじりの爆風が工場の中をどっと吹き抜けた。「工場に爆弾が落ちた。」立ちこめた土煙の中、ほとんどつぶれてしまった工場の、崩れ落ちて来たハリの間から、わずかに出入り口が明るく見えた。はい出すようによろけながら戸口へ。出口には鉄板が斜めに倒れかかっていた。「やられたの。」と友だちに呼びとめられ、気がつくと、まともに受けた爆風で鼻血が出て制服は真赤に染まり、ガラスの破片で左手首の内側がえぐれて血が吹き出していた。友だちが持っていた三角巾で傷口を押え、「山の防空壕へ。」と言う声にせき立てられるように少し離れた裏山へ走った。途中、見上げた空は今までの美しい青空から一変して、真黒な雲が何千メートルもの高さから襲いかかるように、おおいかぶさって来た。雲は黒く赤く灰色に変化し、むくむくと魔物のように大きくなり、空をおおってしまった。道端につながれた馬が丸くふくれ上がった体に、無数のガラス片を突き立てたまま、じっと動かずに立っていた。山の横穴に駆け込み、赤チンだけの治療を受けた。しばらくして、外の井戸端で鼻血のついた顔を洗っていた時、バラバラと大粒の雨が降り出した。「アメリカが石油をまいた。」「山に火をつけ、みな殺しにするつもりでは。」みんな恐怖に顔をこわばらせ、壕の中に走り込んだ。雨は真黒な砂まじりで、血のついた上衣を、包帯を点々と黒く汚した。この黒い雨が放射能を含んだ危険な雨だったことが後でわかった。広島が大変なことになったらしいと話が伝わり、家族を心配して山を下りたいと言い出す人も出始めた。どの位たったか「宮島線が草津から動き出したので、怪我をして救護などの出来ない人は帰宅してよろしい。」ということになり何人かの友だちと草津まで歩くことにし、みんなと別れ、山をおりた。小さな草津駅は負傷者でごった返し、頭にうすよごれた包帯をぐるぐる巻いていた人、両手に火傷をして皮がむけている人、ボロボロに衣服が破れている人。しかし、この時間ここまでたどり着けた人は割合軽傷の人が多かったように思う。かえって、血で真赤になった私の制服を見て「どこをやられたん。」と心配してくれる人が多かった。家にたどり着くと、母も祖父母も血に汚れた私の姿に驚いたが、無事な帰宅を本当に喜んでくれた。夜になると、広島の方から負傷者を乗せたトラックが何台も通り過ぎた。広島の空は夜中、ボーと赤く燃えていた。翌日から母は救護所へ奉仕にかり出され、毎日出かけて行った。急ごしらえの病室の板の間にケガ人がゴロゴロ寝かされていた。顔中焼けただれ、どこが目か鼻かわからない少女の小さくしか開かない口へ数滴の水をたらし込んであげたら、かすかに「お母さん」という声。焼けこげた胸の名札は、ただ十四才としか読めなかったが、どうしてあの時名前を聞いてあげなかったのかと今でも悔まれるという。けが人の多くは火傷で全身の皮膚がむけ、ボロ布ようにたれ下り、赤い傷にはハエが真黒にたかり、追っても追っても逃げなかった。何をどう手当てするすべもなく、ただ寝かせておくだけ。「お母さん、助けて」「兵隊さん、お水」と言いながら次から次へと死んで行った。その死臭は手ぬぐいを何枚重ねてマスクにしても鼻についてはなれなかったという。救護所の広場では薪を積み重ね、幾日も死者を焼いたという。 私たち二年生は早めの動員で、市外の工場に分散疎開していたので、ほとんど全員が助かったが、一年生三百余人は建物疎開の勤労奉仕に参加していて、市内土橋で被爆、欠席者以外全員が亡くなった。一発の爆弾で、人が人を何の心の傷みもなく殺す。こんな恐ろしいことが、戦争になると国家の名に於いて平然と行われる。狂気としか言いようがない。 |
サイズ(cm) | 51.4×72.5 |
展示の説明文 | 外の井戸端で鼻血のついた顔を洗っていた時、バラバラと大粒の雨が降り出した。「アメリカが石油をまいた」。「山に火をつけ、みな殺しにするつもりでは」。みんな恐怖に顔をこわばらせ、壕の中に走り込んだ。雨は真っ黒な砂まじりで、血のついた上衣を、包帯を点々と黒く汚した。この黒い雨が放射能を含んだ危険な雨だったことが後でわかった。 |