トップページ原爆の絵母はやけどはだいぶよくなったが今度は気分が悪くなり大量の出血をして亡くなった。
識別コード | NG401-07 |
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絵の内容 | 母はやけどはだいぶよくなったが今度は気分が悪くなり大量の出血をして亡くなった。 |
作者名(カナ) | 梶田 瞳(カジタ ヒトミ) |
作者名(英語) | Hitomi Kajita |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
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爆心地からの距離 | |
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作者による説明 | **絵の中 No.7 十五日の玉音放送を聞いて母はうそだうそだと云ってほんとうにしませんでした。それは勝利のことばかりを思って頑張っていた母なのですからうその様な氣がしていけなかったのでせう。 あの絵画の先生の増田勉先生も沢山の生徒を亡くして心に大きな傷をおわれましてほんとう運命の別れ目とはこわいものです学徒動員で私も出ていましたが西と東ではこんなにもちがうものです 火傷の方は大分なほり顔も少しはきれいになったなあーと思っていました矢先少し気分が悪るくなりました。 叔父さんが来てくれたので私のことをよろしくよろしくとお願いしていた様でした。叔父は心配いらぬから早く元気になる様に申しておりましたがそれが最後だったのです お友達がキリンビール・サイダー会社にお父様が勤められていたのでお野菜とサイダーを持ってお見舞いにきて下さり大変うれしく馬令薯を炊いていたら、隅の人が早く早くと呼ばれるのでいそいでかけよってみると首のうしろから沢山の血が流れ出てもう瞳目が見えないよと母からの声お母ちゃんお母ちゃんといってもだん<声も出なくなり悲しい一時となりました。 この悲しさは一生忘れませんだからあまり人には話したことはありませんでした。それから雨が毎日降って火葬も出来ずに一週間位してやっと出来ました。私は母亡き後三原の女学生の方々と一しょに挺身隊となり十月十四日迄頑張りました。 母がお世話になった恩がへしの万分の一にでもなればと思いまして五十七年の前のことを思い浮かべて書きました。 |
サイズ(cm) | 25.2×35 |
展示の説明文 |