トップページ原爆の絵避難所を変わることになりトラックに乗り府中国民学校に行った。たくさんの負傷者でいっぱいだった。
識別コード | NG401-06 |
---|---|
絵の内容 | 避難所を変わることになりトラックに乗り府中国民学校に行った。たくさんの負傷者でいっぱいだった。 |
作者名(カナ) | 梶田 瞳(カジタ ヒトミ) |
作者名(英語) | Hitomi Kajita |
当時の年齢 | |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | |
情景場所 | 府中国民学校 |
情景場所旧町名 | 安芸郡府中町 |
情景場所現町名 | 安芸郡府中町 |
爆心地からの距離 | 4,800m |
ブロック別 | |
作者による説明 | **絵の中 No.6 それから二、三日してから今度は避難場所をかはる事になりました。どこに行くのかトラックに乗り皆んなでガタゴトとゆられて行きました。 まもなくゆられていましたが着きました。 府中の国民学校の校舎でした。 多くの傷人や火傷の人で一杯でした。 母も一しょに並んで休みました。 大阪から先生がこられて救護に当っておられました。 大阪のお医者様が母になにか言はれました。 ドイツ語で「おばあちゃんあんたがよくなったら豆の赤飯を祝ってあげるよ」と言われたのだそうです。母もどうせいけないと思っていたのでせう。 それから二、三日たって田舎から叔父さん達が来てくれました。 ずい分さがしたそうです。ハガキも約一ヶ月位かゝって来たそうです。やっとの思いで母の兄との再会です。 おにぎりを沢山作ってもって来て下さりうれしく皆んなにわけました。学校の前の農家の縁側で食べさせてもらいました。その時のハエの眞黒色が飛んでいたのは今でも忘れません。玉島の方の娘さんが大火傷でくるしんでいられたので少しひやしたりしてあげましたが兵隊さんのお嫁さんになる人で名前をいつては泣いておられました。頭の髪の中から手の腕の肘の所からウジが一ぱいうよ<して可愛そうでした。とう<兵隊さんがこられた時は亡くなられた一時間位のちでした。 |
サイズ(cm) | 25.2×35 |
展示の説明文 |