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トップページ原爆の絵遠縁の家に避難する途中、紙屋町交差点付近では、警防団の人が死体を集めて火葬していた。

原爆の絵

識別コード NG363
絵の内容 遠縁の家に避難する途中、紙屋町交差点付近では、警防団の人が死体を集めて火葬していた。
作者名(カナ) 横田 勝(ヨコタ マサル)
作者名(英語) YOKOTA Masaru
当時の年齢 19歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/8(時刻)10:00頃
情景場所 紙屋町
情景場所旧町名 紙屋町
情景場所現町名 紙屋町
爆心地からの距離 200m
ブロック別 紙屋町・本通地区
作者による説明 **絵の中
8月8日 (朝)
8月8日(10時頃)紙屋町電車通り・・・半身大火傷を負い6日午後から防空壕の中で気を失っていた私は、8日朝、母の押すサイドカーに乗せられ従兄が前引きをして15キロ離れた芸備線玖村駅近くの遠縁の家に避難した。
紙屋長交差点近くでは、警防団の人々が死体を集めて火葬しておられた。その火は天を衝く勢いに見えた。
横田 勝 77歳
**別紙
被爆の絵について
 昭和20年8月6日8時15分私は千田町の自宅前で被爆した。
元安川の土手で遮蔽物もなく直接被爆したものと思う。右半身と左手を火傷したが、カーキ色のズボンは真っ黒に焦げて、その下の肌も火傷していた。
 右手は肩から皮膚が剥がれて垂れ下がっていた。あまりの熱さにたまらず庭の木立の中にあった防火水槽の水をザブザブとかけた。
 しばらくして左目が見えなくなった、左手でこすってみるとべっとりと血がついた。
後で分かったことだが、頭のてっぺんに三角のガラスが立っていて、そこからの出血が目に流れ込んでいたためだった。
 暫くすると学校(広島工業専門学校)から同級生が逃げて来た。校舎が倒れて肩を骨折したものもいた。市街の中心部から夥しい人がぞろぞろと逃げて来た。みんな血だらけで皮膚がめくれてドロだらけの人ばかり。
 私は我を忘れて日蔭に座らせたり、水を飲ませたり介護に走り回った。幸、母も一緒だったため大破した家から薬を持ち出して応急処置をしてまわった。自分の頭のガラスを抜き取ったが不思議に出血は止まっていた。
 町中から火の手が上がり、また家の南側の変電所から出火した。そのうちに気分が悪くなり木立の中の防空壕で横になったまま気を失った。6日の午後だったようである。
 母は下流川町の家(店舗)で被爆したであろう父を毎日市内を捜し回っていたようである。しかし、見つからなかった。
 8月8日朝、広大付属中学校の教官をしていた従兄が「このままにしておいたら勝さんは死んでしまう。玖村の南さん(遠縁)の所に世話になっている従兄の父母のところへ行こう」と言うこととなった。
 自転車のサイドカーにのせて、前を従兄がロープで引っ張って15キロの道を行くこととなった。自転車に乗ったことのない母は…ハンドルを押すだけだけれども大変なことだったと思う。命の恩人”お世話になった従兄は戦後若くして亡くなった。
 私はサイドカーの上に敷かれた布団に横になっていたが、ゴトゴトと揺れて体中が痛いので座って行くこととした。それでも時々記憶が薄れたのを覚えている。
 ところが、不思議なことに当時の紙屋町交差点の様子は今も鮮明に記憶している。
昭和50年母は、“市民の手で原爆の絵を”に応募し、記念の絵を残してくれた。
その母も平成元年6月に他界した。
横田勝
サイズ(cm) 32.5×40.8
展示の説明文

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