トップページ原爆の絵血とうみの臭いがただよいウジが負傷者の体をはいまわった。無麻酔で手術を受け足を切断した。
識別コード | NG362-03 |
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絵の内容 | 血とうみの臭いがただよいウジが負傷者の体をはいまわった。無麻酔で手術を受け足を切断した。 |
作者名(カナ) | 沼田 鈴子(ヌマタ スズコ) |
作者名(英語) | NUMATA Suzuko |
当時の年齢 | 22歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/10 |
情景場所 | 広島逓信局 |
情景場所旧町名 | 基町 |
情景場所現町名 | 東白島町 |
爆心地からの距離 | 1,380m |
ブロック別 | 基町・白島地区 |
作者による説明 | **絵の中 ③ 逓信局の一階が八月十日から假の病室になりました。 病室にはケガ人ヤケドの人達でいっぱいでもがき、苦しみの叫びの声と姿 鈴子21才 (1)(2)(3) 八月十日の早朝無麻酔のまま左大腿部より切断され、命を与えられて、病室に移る。 血とウミの臭や黒いハイが飛び交いウジ虫が傷ついた誰の身体にもくい入るようにはい廻る 無残で悲惨な生地獄の中で死者と同居の日々でした。 沼田鈴子(79才) **別紙 ③の絵の病室の中で見た死者の姿について 私の寝かされている左側のすぐ側に (1) 顔は傷だらけで、爆風のために右腕を失われた若いお母さんの包帯には、皆と同じように血と膿がにじみでて、ウジ虫がはい廻っていました。左腕に三才になる男の子を抱いておられましたが、男の子は爆風のため、声を失い泣くこともしません、そのため傷ついたお母さんは、自分の苦しみにたえながら子供のことを心配し、じっと見守っていらっしゃいましたが、十月二十五日の夜、腕の中で子供が死亡し、はじめてお母さんが大きな声で泣かれました。 (2) 次の死者の方は、私と同僚になった人で、東京から夫婦と子供三人と共に広島に転勤でこられ、三日後に原爆を受けました。あの朝警戒警報が解除と同時に、三人の子供は外にでて遊んでいましたが、三人の子供は行方不明になり、主人は玄関の外にでたとき、強い熱線を体に受けて大ヤケド、奥さんは家の中で熱線と爆風でヤケドとケガの姿になられましたが、三人の子供をさがし廻っているとき、ひぶくれの主人と出会って私のいる病室にこられましたが、主人は、苦痛の叫びの中で発狂の状態になり、八月二十五日の夜、断末魔の声と共に死亡されました。 (3) 奥さんは八月の末が出産予定でしたが八月十四日に男の子を出産されました。生れた男児の身体には紫色の小さな斑点が現れており三日後に死亡、続いてお母さんも死亡、一家六人は、原爆のため死者になるために広島にこられたように思えてなりません。 私は死者への思いをはじめて原爆の絵として描きました。私は体験を語るとき、あの日の事実を、絵を見せて、人類が生きつづけるために、後世に伝えておきたいと思います 沼田鈴子 |
サイズ(cm) | 26.9×37.8 |
展示の説明文 |