トップページ原爆の絵新橋は焼け落ち対岸にあるはずの我が家はなく絶望感から級友と2人声もなく泣いた。
識別コード | NG345 |
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絵の内容 | 新橋は焼け落ち対岸にあるはずの我が家はなく絶望感から級友と2人声もなく泣いた。 |
作者名(カナ) | 大西 安子(オオニシ ヤスコ) |
作者名(英語) | Yasuko Onishi |
当時の年齢 | 13歳 |
寄贈者名 | |
種別 | 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集) |
情景日時 | 1945/8/6 |
情景場所 | 新橋 |
情景場所旧町名 | |
情景場所現町名 | |
爆心地からの距離 | 420m |
ブロック別 | 平和記念公園・周辺地区 |
作者による説明 | **絵の中 新橋 元安川 中島本町 找木町 慶蔵院 誓願寺 我が家 天神町 中島新町 **別紙 大西(畦田)安子 私は広島女学院二年生在学中、学徒動員で(二十名)第二総軍司令部に勤務中被爆。猛火収まるや余燼燻る焼跡に家族の消息を求めて市の中心の我が家に向かいました。散乱する悲惨な遺体の中を、やっと旧新橋のたもとに辿り着いたものの橋は中央から焼け落ち、渡ればすぐに在る筈の我が家は勿論(爆心より四百米)向いの慶蔵院、大きな山門の誓願寺も灰燼と消え茶褐色の焼跡が見渡せる限り延々と広がっておりました。 生きて動いている人影も無く唯々静寂な死の世界でした。 絶望感で級友と二人声も出ず泣きました。 苦しげに虚空を掴んだ遺体、川に向かって這う姿の子供の遺体、鉄甲でも被っていたのか頭頂部に丸く頭髪を残すだけで熱線で全身焼け爛れた人々。瀕死の負傷者が焼け崩れた手を出し「水 水」と水を欲しがった姿を忘れることはできません。私は八月六日朝、家を出たまま父母妹二人の家族に再会することはできませんでした。 平成十四年七月二十五日 大西安子 旧住所 広島市材木町 畦田安子 (畔田善四郎長女) 丸善酒店 |
サイズ(cm) | 26.8×37.8 |
展示の説明文 | 学徒動員で第二総軍司令部に勤務中、被爆。余燼燻ぶる焼け跡に家族の消息を求めて市の中心の我が家に向かいました。やっと新橋のたもとに辿り着いたものの、橋は中央から焼け落ち、渡ればすぐ在る筈の我が家は消え、焼け跡が延々と広がっていました。絶望感で級友と二人、声も出ず泣きました。私は八月六日朝、家を出たまま、父母妹二人の家族に再会することはできませんでした。 |