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トップページ原爆の絵火災に追われ舟に乗せてくれるよう頼んだがすでにいっぱいだった。燃え盛る道を走って逃げる。

原爆の絵

識別コード NG329
絵の内容 火災に追われ舟に乗せてくれるよう頼んだがすでにいっぱいだった。燃え盛る道を走って逃げる。
作者名(カナ) 松本 政夫(マツモト マサオ)
作者名(英語) Masao Matsumoto
当時の年齢 11歳
寄贈者名
種別 市民が描いた原爆の絵(平成14年収集)
情景日時 1945/8/6(時刻)8:40頃
情景場所 横川橋
情景場所旧町名
情景場所現町名
爆心地からの距離 1,290m
ブロック別 三篠・祇園地区
作者による説明 **絵の中
人々が泣いている
大空も泣いている
地上総てが・・・物が泣いている
この愚かな行為に一発の閃光は物凄い爆風と数千度の放射熱線は市民を焼き なぎ倒し
家々は狂ったように燃え上り四方火の海と化し逃げ場を失なった
道路は熱くなり素足では歩く事が出来ない
横川橋を渡ると小舟が上流に向かおうとしていた
水面から水蒸気が立ち昇り燃えているように見えた
「乗せて下さい」と叫けんだが「もう乗れない」
満潮のようで 土手下を逃げる事が出来ず燃え盛る道をシャツを頭からかむり力の限り駆けた
涙も汗も出ない
蒸発し体から水分が無くなるようでノドが乾き水が欲しい
八月六日八時四十分頃だと思います
**裏
松本政夫
**別紙
私は当時国民学校六年生(十一才)父の実家可部町に疎開していました。
母・妹・弟は舟入に住んでいて、八月五日母に逢いに帰り四人で一夜を過ごし、六日朝皆んなで可部に行く事になり市電に乗り十日市電停付近で被爆。
十日市→横川橋→大芝山陽本線鉄橋を渡り→牛田→矢口、舟に乗せてもらい緑井→可部に帰る。
私が舟入の自宅に帰らなければ、母妹、弟は悲惨な事にならず、幸せな人生を過ごしたかも知れない。
私が生き残り、申し訳なく思い、涙がこぼれる。
毎日、合掌の日々です。
戦争が無くなり平和が続く事を願います。
昭和二十年 
妹 八月十三日 亡 七才
弟 八月十五日 亡 十一ヶ月
母 八月二十四日 亡 三十五才
父 十一月 中国大陸で戦病死 無念だったと思います。
松本政夫
サイズ(cm) 38×53.7
展示の説明文

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